そんな衝撃的な人生を描いたノンフィクション番組が、日本で注目を浴びました。
欧州では、今から70年以上も前のこと、ある子供たちが親の罪によって重荷を背負わされました。
ナチス幹部の子供たちです。
第三帝国が繁栄している頃、彼らはまるで王子様やお姫様のように大切にされました。
アーリア人らしいブロンドをおさげにした女の子。ドイツの民族衣装であるレーダーホーゼンを履いた男の子。無邪気に微笑みながら「ヒトラーおじさん」と一緒に写真や動画におさまる子供たち。
無邪気な彼らは、父親が何をしているか知りませんでした。
アウシュヴィッツ所長の幼い娘は、あまりに幼いがため、何かを焼いた灰が飛び散っていることに何の疑問も抱きません。
空襲に焼かれ、母の腕の中で赤ん坊が死んでいく中、彼らは爆弾など全く落ちてこない山岳地帯で、牧歌的な暮らしを送っていたのです。
しかし、そんな彼らの恵まれた生活も、ヒトラーの死と第三帝国の崩壊によって、悪夢と変わります。
親から毒を飲まされ、殺された子。
命の危険を感じ、連合軍から逃げ惑う子。
まさに運命の暗転――。
しかし、真の苦しみと向き合うことになるのは、成長してからでした。
彼ら彼女らは父の所業を知り、苦悩のドン底へ落とされます。
「嘘よ、はめられたのよ! そんなに大量に、人を殺せるわけはないわ。パパは無実よ。パパはとても優しかったもの」
そう否定し、父のことを誇りに思い続け、極右活動に安らぎを見いだした娘。
「私は父の罪を償います。私が知る限りすべてのことを書き記し、未来への教訓とします」
回顧録を刊行し、極右政治に警鐘を鳴らした息子。ほかにも……。
外国に渡り、名を隠して生きた者。
罪を償うために聖職者となった者。
ぬけぬけと父の遺品を競売にかける者。
父の潜伏先・アルゼンチンまで、何十年かぶりに駆けつけた者。
そんな子供たちの中で、父と同じ名を捨てず隠さず、父譲りの才能を発揮して名声を得たのが、アルベルト・シュペーア・ジュニアでした。
父は、稀代の芸術的才能を発揮し「悪魔の建築家」と呼ばれたアルベルト・シュペーア。
本記事では、1981年9月1日に76歳で亡くなったアルベルト・シュペーアの生涯を追いながら、残された子どもたちの境遇にも注目してみました。
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「悪魔の建築家」アルベルト・シュペーア
アドルフ・ヒトラーには、壮大な夢がありました。
世界の首都と讃えられる、壮麗な都市を作り上げることです。
グランドデザインはヒトラー。
そして細部を設計するのは、建築家であるアルベルト・シュペーアでした。
1905年、マンハイム――。
アルベルト・シュペーアは、祖父も父も成功した建築家という、建築一家に生まれました。
虚弱体質であった彼は、頭脳で欠点を補おうとします。祖父や父と同じく建築家となるため、大学で工学を学ぶのでした
17才の時、シュペーアは通学路で恋に落ちました。
相手はマルグレーテ・ヴェーバー。指物師の娘です。
シュペーアの両親は「あんな娘よりふさわしい相手がいるだろう!」と交際に大反対でしたが、シュペーアは、6年後にマルグレーテと結婚します。
彼が学生になったころ、多くの若者はナチスを支持していました。
第一次世界大戦後、莫大な賠償金に頭を抑えられていたようなドイツ。
ナチスには、そんな閉塞感を打ち破る魅力があったのです。
1931年、シュペーアもナチスに入党。その翌年、ベルリンにある党の建築物改築に携わります。さらには総統官邸改修に参加し、ヒトラー本人と親しくなりました。
芸術家肌でもあったヒトラーと、若き建築家のシュペーアは、気があったようで。
職務上のつきあいだけではなく、親友として二人は接近したのでした。
ヒトラーの右腕として働くようになったシュペーアは、のちに「悪魔の建築家」と呼ばれるようになります。
ヒトラーおじさんと子供たち
1934年、シュペーアは党主任建築家に就任。
同年、マルグレーテとの間に初の子となる男児が誕生しました。
彼には、父と同じ名をつけられました。
仲むつまじい夫妻の間には、子供たちが6人生まれることになります。
その4年後の1938年、一家はヒトラーの近所に引っ越しました。
幼いシュペーア家の子供たちにとって、ヒトラーは近所のおじさんでもあったのです。
ヒトラーの誕生日になると、ナチス幹部の子供たちはおめかしをさせられて、ベルクホーフにある総統の山荘に向かいました。
そこでヒトラーと一緒に、チョコレートケーキでお祝いをするのです。
無邪気な子供たちと遊ぶヒトラーの様子を、エヴァ・ブラウンが動画を撮影していました。
そこに映るヒトラーは、人のよいおじさんそのもの。
愛想が良いのに、どうにも不器用で子供のご機嫌取りは下手でした。
ヒトラーは、彼らには、とても優しかったのです。
シュペーアの成功と家族の幸福
シュペーアはドイツの威光を輝かせるような、壮麗な建築物をいくつも手がけました。
さらに政治家としても出世を遂げます。
1942年には死亡した前任者にかわり、軍需相に就任。軍事に関しては素人同然ながら、建築で鍛え上げた緻密な計算能力を生かすこととなります。
そんな中、シュペーアの妻子たちは穏やかな暮らしを送っていました。
各地の戦場でドイツ兵が命を落とし、強制収容所からはユダヤ人の遺体を焼却する灰がまき散らされていましたが、そんな地獄からはほど遠い日常。
ナチス幹部の子供たちは、風光明媚な山岳地帯であるベルヒテスガーデンに暮らし、そこから学校へと通っていました。
耐乏生活からも、空襲で落ちてくる爆弾からも、無縁の土地でした。
ドレスデン、ハンブルク、ベルリンといった都市のドイツ市民が爆撃にさらされていましたが、そんなことは関係ありません。
ナチス高官の中には、子供を増やすために公然と愛人を作る者もいましたが、シュペーアは妻のマルグレーテだけを愛していました。
家庭には国家社会主義は一切持ち込まれず、夫婦仲は良好。
家族にとって、父は尊敬すべき存在であり、ユーモアのセンスも持ち合わせていたのでした。
建築家だけではなく、政治家としてもナチスに貢献したシュペーア。
しかしその栄光も、1945年の第三帝国崩壊によって終局を迎えるのでした。そして……。
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