こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【「悪魔の建築家」アルベルト・シュペーア】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
第三帝国崩壊、そして裁かれるシュペーア
1945年4月、シュペーアはもはや情勢から逃れることは不可避であると悟りました。
裏切り者と呼ばれるリスクはあったものの、彼は家族をベルヒテスガーデンから避難させることにしたのです。
その翌月、シュペーアはついに逮捕されました。
家族は、広大な屋敷から僅か二間しかない狭い家に移らざるを得ません。妻は夫と、子供たちは父と別れることになりました。
子供たちは洗礼を受け、今や一般市民として暮らすことになりました。
むろん、ただの市民ではなく、戦犯規定がおよんでいます。
一方、シュペーアは収容所を転々とさせられ、戦犯として出廷することに。
裁判の場で彼は、自分はただの建築家で政治的には役割を果たしていないと訴えましたが、その言葉を信じる者はいません。
法廷では、ナチス幹部同士による、醜い責任の押しつけが繰り広げられました。
「シュペーアは裏切り者!」
「あいつの設計した建物を作るために、一体何人が強制労働をさせられたか!」
「ナチスのために働いたあいつは、“悪魔の建築家”だ!」
そんな非難がシュペーアには浴びせられ続けました。
面会も手紙のやりとりも苦痛
その一方でマルグレーテは、子供たちを連れ、ひっそりと郷里マンハイムに戻りました。
「あなたも苦労なさったでしょう、それに子供たちに罪はありませんからね」
町の人々も、学校の教師も、一家に配慮はすれども、排除はしません。
子供たちは父の罪を受け止めるとともに、人々のあたたかい心に接し、謙虚に生きることを選びます。
慎ましい母子家庭として暮らすシュペーア一家。
そんな一家にとって悩みの種は、戦犯となった父のことでした。
一番幼いシュペーアの子は別離の際、まだ2才にもなっていませんでした。そんな彼にとって、父親はいないも同然なのです。
後に三男のアルノルトは、こう語りました。
「1945年まで、私の前にいたのは父だった。しかし1945年以降は戦犯だった」
1953年、子供たちは父と初めて面会する機会がありました。
ぎこちなく、堅苦しい言葉遣いで対面する実の親子。
シュペーアは愕然としました。我が子との再会というよりも、壁と話しているような気すらしました。
「パパとの面会、嫌だなあ……」
毎月1回、30分間。
子供たちにとって面会は面倒で苦痛を感じる、冷ややかなものであったのです。
「残虐行為のことは何も知らなかったんだよ」
獄中の父からは、時折手紙が届きました。
これに対して返信することも、子供たちにとっては重荷です。
手紙を書く際には、子供同士でニュアンスをチェックし、写真を添えました。それは愛情というよりも、義務的に近い行為に過ぎなかったのです。
獄中のシュペーアは、手紙に添えられた写真を見てもどれがどの子か、わからなくなっていました。
それでも持ち前のユーモアセンスを駆使して、獄中生活を面白おかしく書きました。
その手紙を読んで笑ったこともある、と二女のヒルデは認めています。
あるときヒルデは、父に手紙でこう尋ねました。
「お父さんは本当に、あんな邪悪な体制に加担していたのですか」
シュペーアは長い返信を書きました。
「安心しなさい。お前のお父さんは、残虐行為のことは何も知らなかったんだよ」
しかし、ヒルデは信じませんでした。
たとえシュペーア本人が虐殺に直接加担していなかったとしても、ナチスの威光を高めるような建築物を設計したこと。政権中枢にいたことは事実なのですから。
シュペーア一家の中では「お父さん」という単語すら、口に出すことがためらわれるようになりました。
家族にとって、戦犯である父は忘れたい存在となっていたのです。
※続きは【次のページへ】をclick!