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【「悪魔の建築家」アルベルト・シュペーア】
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軽蔑される父親
1966年、61才のシュペーアが釈放の日を迎えました。
獄中で彼は記録を残し、自己正当化に努めてきました。
報道陣のカメラが放つフラッシュとライト。
ジャーナリストは群れを成していた一方、姿を見せた家族は妻マルグレーテだけ。
翌日、シュペーアは15人ほどの家族親族の前にあらわれます。
誰もがぎこちない笑顔を浮かべ、戸惑いを見せました。そもそも獄中にいたばかりの人物と、そうでない人物で話が合うわけもありません。
大勢の血縁者に囲まれているにも関わらず、シュペーアは孤独でした。
その後、子供たちは父の周辺から次第に離れていきます。
17才の時以来、仲むつまじかった妻とも関係が悪化。
別居し、愛人を作ったシュペーアを、子供たちはますます軽蔑しました。
シュペーアが1981年にロンドンで客死した時、側にいたのは妻ではなく、愛人でした。
父と決別する子供たち
幾人かのナチス幹部の子供たちは、父の威光を追い求めるあまり、極右的な思想すら持ち、それがゆえに本人も周囲をも苦しめました。
しかし、シュペーア家は違いました。
二女ヒルデは結婚し、ヒルデ・シュラムとなりました。
社会学者となり、寛容を説くリベラルな政治家としても成功を収めます。
しかし1994年、ヒルデが「モーゼス・メンデルスゾーン賞」を受賞した時は、物議をかもすことになりました。
授賞式がベルリンのシナゴーグ(ユダヤ教の施設)で開かれるからです。
「シュペーアの娘がシナゴーグで授賞式とは……」
ユダヤ人コミュニティーの反対により、授賞式は教会に変更されました。
しかし、ヒルデがナチス高官の娘として問題視されたのは、この時くらいです。
ヒルデは父の残したナチスの略奪美術品を売却し、ユダヤ人向けの基金に全額寄付しました。
彼女の言動は、父の残した罪とはきっぱり袂を分かつ者として、賞賛の対象となったのです。
三女マルグレーテ・ニッセンは、写真家として成功。
そして長男のアルベルトは父と同じ名を隠さず、父と同じ建築の道へと進みました。
2008年の北京オリンピック。
国をあげた大事業に向けて、中国政府は著名な建築事務所に様々な依頼を出しました。
その中には、ドイツ有数の建築設計事務所アルベルト・シュペーア&パートナーも含まれていました。
この事務所が、故宮と国立競技場を結ぶプロジェクトを立案すると、マスコミはこう指摘しました。
「これは“ゲルマニア”プロジェクトの再来ではないか」
確かにそうかもしれない――アルベルトはそう認めました。
無意識のうちに、あるいは血のなせるわざか。
彼の建築家としての才能は父と同じく、国威発揚につながる巨大建築物のデザインに適していました。
彼は様々なスポーツや盛大なイベントを手がけた建築者として名を馳せ、2017年9月、83才の生涯を閉じます。
父と同じ名を名乗り、父と同じ道を歩むこと。
それが彼なりの責任の取り方であったのかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
タニア クラスニアンスキ/吉田春美『ナチの子どもたち:第三帝国指導者の父のもとに生まれて(原書房)』(→amazon)