自身が平気で人の命を踏みにじるせいか。
独裁者は“暗殺”に対して異様な警戒感を抱きがちですが、それはヒトラーも例外ではなく、実際、1944年7月20日には著名な暗殺未遂事件(そのまんま7月20日事件)が起きました。
そのせいで思わぬところでも不幸に遭った方がいて、あるドイツの女性が驚くべき証言をされています。
「若い頃、ヒトラーの毒味役だったのよ。志願してやったんじゃなくて、強制でやらされたの」
絶句するしかないこの告白。
英国のデイリー・ミラー紙(→link)が報じておりました。
15人の毒味役 最後の生き残り
衝撃の告白をなさっているのは、こちらのマルゴット・ウェルクさん(以下、サイトより引用させて頂きました)。

マルゴット・ウェルクさん/デイリー・ミラー紙より引用
なんでも第二次世界大戦中ずっとヒトラー用に調理されたのと同じメニューの料理を食べさせられ、その度に「これが人生最後の食事になるかもしれない」と心配なさっていたそうです。
ウェルクさんによると、こうした毒味役は全部で15人いました。
そのいずれもが、厳重に警備されたヒトラーの隠れ家にバスで連れて行かれては、したくも無い食事をさせられていたのだとか。
ヒトラーは『連合国側が自分を毒殺する』という強迫観念に取り憑かれており、それ故の災難だったのです。
食事のあとにみんな号泣した理由
こうした女性の内、唯一存命なのが御本人。その証言が生々しい。
「同僚は食べ終わったら、犬みたいに泣いていたわ」
恐怖心からではなく「食べても無事生きているという事への嬉し涙だったのよ」とのことで、背筋が凍り付くような話です。
ちなみに、それでも疑念を捨て去れないヒトラーは、こうした女性が食べ終わって1時間後に手を付けていたのですって。

ヒトラー/wikipediaより引用
なぜかと言うと、遅効性の毒物を使っているかもしれないからと思っていたらしい。もう、ここまで来ると病気ですな。
「何人かは、食べ始めると泣いていたの」とウェルクさん。
「今度こそ駄目かも」→「助かった!」の繰り返しで、ロシアン・ルーレットのナチス版とも言うべき行為を一日3回、しかも365日ずっとなんですから、そりゃ泣きたくもなりましょう。
戦後も長きに渡って、こうした辛い経験を口にして来なかった事には理由もありました。
ナチス親衛隊の高官に強姦されていたからです。しかも当時、夫がいたのに。その夫は、軍人として出征中でした。
ベルリンの空襲の疎開先で
鉄道員の娘として生まれた、ウェルクさんが、この毒味役をやらされるようになったのは24歳の時。
気ままな青春時代を過ごし、ユダヤ人の友人すらいました。
しかし、そんな時代も1933年にナチスが政権を握ると一変します。
1941年に連合軍の空襲で、住まいだったベルリンのアパートが焼け出されます。
先にも書きましたが、夫には召集令状が届き、兵士として戦っていたので、頼る先は東プロイセンのパルチュ(現ポーランド領パルチ)にある母の実家だけでした。
住む家を焼け出されただけでも不運なのに、それが重なります。このパルチュは、有名なヒトラーの司令所であった「狼の巣」に近かったのです。

狼の巣・ヒトラー専用の掩蔽壕(えんたいごう・防御施設)/wikipediaより引用
やっとの思いで辿り着いた街の市長は、彼女に「毒味役をやれ」と強要。従わざるを得なかったそうです。
ちなみに、ウォルクさんは毎日連れて行かれて毒味をやらされはしたものの、ヒトラー本人を見かける事は全く無かったそうです。
先にも書いたように、殺されるとの強迫観念に縛られていたからです。
そうこうする内に、有名なヒトラー暗殺未遂事件が、1944年7月20日に発生します。
毒殺ではなく、爆殺って訳です。
「その時も、皆で毒味役を強要させられていたの」とウォルクさん。
情報が入って来ないので「英国がヒトラーを毒殺しようと企てているって噂が、何時もあったわ」とのことです。
菜食主義者のヒトラーの献立
そんな頃の料理にも「肉は全く出なかった。本人が食べないからよ。食べさせられたのは、お米と麺、胡椒のかかった野菜料理とエンドウ豆、カリフラワーばっかり」だそうです。
腹が膨れなかったんだろうなぁ。
というか、そもそもよく喉を通ったもんだ。
これだけでも過酷と形容するのも生ぬるいとしか言い様の無い試練だったのに、そんな最中に強姦されたとなれば、そりゃあ辛すぎますよね。
脱出に成功するも翌年ソ連軍に捕まり…再び地獄の日々
そんな彼女が、鉄道を使って脱走し、ベルリンに逃げ帰ったのは1944年後半のこと。
ようやく安堵の日々が来たかに思えましたが、悲運が更に重なります。
翌年、ソ連赤軍に囚われの身となったからです。
その赤軍は、毒味仲間の同僚を処刑していました。
都合14日間、拘留され、繰り返し、ここでもまた強姦されたそうです。
こうした日々を「この世の地獄」と評した御本人は「その後も悪夢に悩まされる日が続いた」と付け加えました。
なお、遂に子供を産む機会を逸してしまったとも語っています。
1946年に夫が帰還したものの、戦争が2人に強いた重荷を背負いきれず、離婚してしまったからです。
本当に、気の毒すぎる。こんな事があっていいのか!
だから戦争は絶対にしてはいけないし、どんなイデオロギーで偽装しようと独裁制も絶対にダメですね。
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【参考】
デイリー・ミラー紙(→link)
ほか





