1841年(明治二十四年)4月24日、プロイセン王国の元帥(軍で一番エライ人)を勤めたヘルムート・フォン・モルトケ(大モルトケ)が亡くなりました。
【プロイセン王国といえばビスマルク!】
そんな印象をお持ちの方が多いと思いますが、この大モルトケの力がなければあそこまで成功することはなかったのではないか?とも考えられるほど重要な人物です。
彼は一体どんな人物だったのか?
早速、見てまいりましょう。
※大モルトケには、甥っ子のモルトケがいて、こちらが小モルトケとして区別されています。
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メクレンブルク=シュヴェリーン公国生まれ
モルトケとビスマルクは生活習慣から性格まで全くといっていいほど共通点がありません。
しかし、ドイツ統一のため、お互いの仕事へ協力し合うという公私の分別はついていたので大人の対応といえますね。
モルトケは、デンマークに程近いメクレンブルク=シュヴェリーン公国という舌を噛みそうな名前の国に生まれました。
神聖ローマ帝国の中にあった国の一つです。
”フォン”がつく通り代々貴族の家系で、13世紀までご先祖をさかのぼることができるそうです。
日本で言えば「鎌倉以来の名家」ですかね。
しかし、モルトケが生まれた頃には食うや食わずの状態まで没落していたため、生活は決して楽ではありませんでした。
お父さんもプロイセン軍人で、モルトケが幼い頃にデンマーク領へ引っ越しており、当初はデンマークの学校で学んだ後デンマーク軍へ入ります。
本当は学者の道へ行きたかったそうですが、学費が払えず軍へ入ったというのですから涙がちょちょ切れますねえ。
お金がないばかりに夢を諦めなければならないという人はいつの時代もおります。
もし、モルトケ家の財布が潤っていたら、ドイツ統一が遅れていたかもしれないんですね。
デンマークを見限りプロイセンへ
時はナポレオン1世の全盛期~凋落期。
この頃デンマークはフランスと同盟を組んでおりましたので、当然のことながらナポレオンと運命を共にすることになります。
といってもさすがに国は滅びておりません。
その代わり?長年支配していたノルウェーを失ってしまっていました。
これを見たモルトケは、同時期に訪れたベルリンの町の発展から「ナポレオンに勝ったっていうし、これからはプロイセンの時代が来る!」と判断。
あっさりデンマーク軍を辞め、プロイセンの陸軍大学に入りました。
よく敵国の軍に入れたな……という気がしないでもないですが、お父さんが元プロイセン軍人だったこと、デンマークの内情に通じていることがかえって良かったようです。
軍事よりも文学や語学を学んでいた
当時のプロイセン陸軍大学では比較的自由に科目を選ぶことができたため、モルトケは軍事よりも、好きな文学や語学を熱心に学んでいたとか。
何のために軍の大学を選んだんだとか言ってはいけません。一応、戦術・戦略に重要な地理も力を入れています。
それに、文学や言語を知ることは自国・他国問わず国民性を知る手段でもありますので、これまた軍事と全く無関係ではありません。
この一見奇妙な学習スタイルは、後々モルトケの人格に大きく影響を与えていくことになります。
学問についても軍事面についても「アンタ最高!!」という評価をもらって大学卒業したモルトケは、まずポーランドとの国境にあるフランクフルト・アン・デア・オーダーというこれまた長い名前の街で兵学校の教官になりました。
今も昔も、教師というのはよほど太っ腹な学校に勤めない限りは懐事情が寂しいものです。
モルトケも例外ではなく、論文や小説といった文筆業をして生活の足しにしていたそうで。
依頼されて受けた仕事の3/4が終わったところで、依頼主から「やっぱあの話はナシで」と言われ、本来の1/3しか報酬をもらえなかったなど、ここでもお金には苦労しています。
現代の物書きも決してラクに儲かる仕事ではありません。
ライターの末座にいる身としては彼の心情を察するに余りあるところです。
瀕死の病人・オスマン帝国へ派遣
しかし、この副業の中で軍の目にとまったものがありました。
「お前、地理に詳しいなら地図作りの部署に行け」ということになったのです。
陸軍の強さに定評のあるプロイセン軍ですが、このときはまだ正確な地図が出来上がっておらず、地理の知識を持った人物が求められていたのでした。
「芸は身を助く」ってヤツですね。
その後もフリードリヒ2世(プロイセンが大国になるきっかけを作った18世紀の王様)や、デンマーク軍についての著述をするなど、彼の文才は折に触れて役立っていきます。
また、物を教えるのも得意だったようで、当時すでに”瀕死の病人”と揶揄されていたオスマン帝国へ軍事教官として派遣されています。
近代化と書いて「オスマン帝国最後の悪あがき」と読む一連の改革のためでした。
が、現地に出ている士官をはじめとした軍人達は、モルトケの忠告や進言を受け入れず精神論ばかりを優先し、散々な有様でエジプト相手にボロ負けします。あーあ。
根性で戦争に勝てれば軍隊はいらん、という話ですね。
モルトケが直接指揮した部隊は最後まで善戦していたそうなので、彼に目をつけた皇帝・マフムト2世の観察眼は間違っていなかったことにはなりましょう。
帰国後は鉄ちゃんに転身!?
戦争の最中に、マフムト2世が亡くなっていたのも大きいかもしれません。
モルトケは帰国前にお墓参りに行っているので、二人の関係は悪くなかったものと思われます。
オスマン帝国はイスラム教、モルトケはキリスト教徒ですし、当時の感覚からすると、「異教徒のお墓へ花を手向ける」というのはある程度人格を尊重していないとできないのではないでしょうか。
ただ単に墓前に報告しただけかもしれませんが、そこはキレイな想像をしておきましょう。
こうして異国の地で「古い考えが足かせになることもある」ということを目の当たりにしたモルトケは、プロイセンへの帰国後、軍の参謀職につきました。
今度はいきなり「ベルリンからハンブルクまで鉄道を引きたいから、お前よろしく^^」と命じられます。
当時モルトケは鉄道に関してほとんど知らなかったそうで、仕事をしながら知識を身につけ、任務を無事遂行するころには再び論文を書いています。
鉄道=輸送能力も軍事にはとても重要なことです。
やっているうちに熱が入ったんでしょうかね。
こういう風に「積極的に仕事をしつつ、趣味にも生かす」という器用さがモルトケ最大の長所かもしれません。
ぜひ見習いたいものです。
ビスマルクとの関係が深まっていく
それからはさらに王子のお付き武官や外交官としても働き、57歳でやっと参謀総長として腰を落ち着けます。
さんざんこき使わ……ゲフンゲフン、さまざまな仕事をしてきたからか、あまり出世欲や権力欲はなく、淡々と職務をこなしていたそうです。カッコイイっすね!
というか、そもそも指揮命令に忠実でなければ戦争には勝てないのですから、軍人が欲を出すのは褒められた話じゃないですしね。
参謀本部の改革にあたり、各方面ごとの課を創設した際ちゃっかり鉄道課も作っています。
別に鉄オタの世界に入ったわけではなく、鉄道の軍事利用を考えていたからです。
民間人に迷惑がかからないように時間を見計らって兵の輸送演習をするなど、細かい心配りもしていました。ホント何してもデキる人ですねうまやらしい。
鉄道の軍事面における有用性は、その後起きたデンマーク戦争や普墺戦争で実践・証明されることになります。
この辺からビスマルクとの協力関係も定番化し始め、ヴィルヘルム1世からの信任も厚くなりました。
同時期の写真で、モルトケ・ビスマルク・ローン(陸軍大臣)が並んで立っているところを写したものがあります。
身長約190cmと言われているビスマルクに対し、他の二人がちっとも低く見えないのが恐ろしい。
民族的に大柄というのもあるでしょうけど、もしかしてビールに身長を伸ばす効果とか?
ンなバカな。
フランスに勝利して世界最強の称号をゲット
ビスマルクの計画に従ってドイツ統一へ進むプロイセン王国には、もう一つ戦争に勝つ必要がありました。
ナポレオン3世が頑張っていたフランス帝国がその相手です。
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