シンドラーのリスト

映画『シンドラーのリスト』とオスカー・シンドラー本人

ドイツ

1,000名以上のユダヤ人を救ったオスカー・シンドラー 実際どうやって救済していた?

1974年(昭和四十九年)10月9日は、映画『シンドラーのリスト』で有名なオスカー・シンドラーの命日です。

既に映画をご覧になられた方も多いでしょうし、「興味はあるけど、怖そうでなかなか見られない」という方もいらっしゃるかもしれません。

映画については「美化しすぎ」「虐殺シーンで好きな曲が使われていてショック」などなど、さまざまな意見がありますが、実際のオスカーはどんな人だったのか。

過激な描写は控えつつ、彼の生涯と偉業についてみていきましょう。

 


子供の頃から近所のユダヤ人たちと一緒に遊んでいた

オスカー・シンドラーは、1908年に現在のチェコで生まれました。

ご先祖は16世紀にウィーンからこの地に引っ越してきていたので、血筋的にはドイツ系ということになります。

一応シンドラー家はカトリックだったそうですが、オスカーはあまり信仰心が強いほうではなく、近所のユダヤ人の子供たちと一緒に遊んでいたそうです。

父親は農業機械の工場を経営していたということですので、経済的には割と豊かなほうだったと思われます。

「衣食足りて礼節を知る」というところでしょうか。

学校の成績は良いほうではありませんでしたが、成績証明書を改竄するという悪賢さは持っていたそうです。

ある意味、これも後々役に立ったかもしれません。

学校を出てからは会社勤めをした後、一時は徴兵でチェコスロバキア陸軍に入っていたことがあります。

1927年に妻エミーリエ・ペルツルと出会い、おおよそ半年ほど後に結婚。

彼女との間に子供はいません。

しかし、父の秘書だったアウレリエ・シュレーゲルと愛人関係になり、子供を二人もうけています。

 


「ズデーテン・ドイツ郷土戦線」の入党で運命が変わる

兵役を終えた後は、元の会社に復職したものの、程なくして倒産。

運悪く父の工場も潰れてしまったため、経済的には苦しい時期が続きました。父さんがとうs……なんでもないです。

幸い、妻エミーリエの父親が援助してくれて何とかなりました。

出資もしてもらったようで、養鶏場を買ったり、銀行で働いたりして生活の基盤を整えています。

彼が社会に大きく関わり始めるのは、1935年に「ズデーテン・ドイツ郷土戦線」という政党に入ってからのことです。

ドイツの諜報員としてチェコの情報を流す――かなり技術と度胸がいる仕事をしていました。

後にバレて死刑になりかけましたが、その前にドイツのズデーテン併合(1938年10月)があり、刑が中止されています。

このことからか、1939年2月にナチスに入り、ドイツがポーランドへ侵攻した後、戦争特需による一攫千金を狙ってポーランドのクラクフという町にやってきました。

1939年10月には、クラクフのホーロー工場(容器工場)を買い取り、新たな事業に乗り出します。

元々はユダヤ人経営者がいたそうですが、ヒトラーの対ユダヤ人カツアゲ政策(マイルドな表現)により売りに出ていたそうです。

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