天平宝字八年(764年)10月9日は、淳仁天皇が廃位された日です。
「淡路廃帝」という名称でご存知の方もいらっしゃるでしょうか。
文字どおり、現役の天皇が廃位にされて淡路国へ流罪になる――かなりエキセントリックな事件が起きたのですが、実は本人には大して責任がなかったりします。
一体どういうことなのか? 事の顛末を見ていきましょう。
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後ろ盾がなく幼いころは相当の苦労
淳仁天皇は、血筋でいえば天武天皇(壬申の乱で勝った人)の孫です。
しかし、父である舎人親王の晩年に生まれた皇子だったため、すぐに死に別れてしまって後押しを得ることができませんでした。
皇族といえど、後ろ盾がなければ貴族のようなそうでないような扱いになることが多い時代ですから、幼い頃は身分からは想像もできないほどの苦労をしたと思われます。
淳仁天皇に光が当たったのは、天平勝宝九年(757年)、24歳のときでした。
藤原氏の意向で当時の皇太子が廃位され、淳仁天皇が代わりに皇太子に立てられたのです。
当時の藤原氏の当主は仲麻呂という人で、淳仁天皇は仲麻呂の息子の未亡人と結婚したり、仲麻呂の私邸に住んだり、大いに庇護を受けています。
この藤原仲麻呂という人も後々違う名前(恵美押勝)になるんですが、ややこしいのでこちらの名前で統一しますね。
上記の通り、幼い頃の淳仁天皇は暮らし向きで苦労したでしょうから、「寄らば大樹の陰」という気分だったのかもしれません。
しかし、こんな親切をしてくれるのは、よほどの忠臣か野心のある人物と相場が決まっています。
仲麻呂は大方の予測通り後者でした。
淳仁天皇 vs 孝謙上皇 vs 仲麻呂の三つ巴
淳仁天皇が即位すると、仲麻呂のでしゃばる機会が非常に多くなりました。
また、淳仁天皇に位を譲った孝謙上皇(女帝)が権力を持ち続けていたため、淳仁天皇は、仲麻呂とも上皇とも対立するハメに陥ります。
ここでややこしいのが、
淳仁天皇
vs
孝謙上皇&仲麻呂
だったわけではなく
淳仁天皇
vs
孝謙上皇
vs
仲麻呂
という三つ巴状態だったことでしょう。
つまり、誰か一人が他の二人を何とかしないとどうしようもないわけです。
すると藤原仲麻呂がクーデターを企てて兵を挙げました。
朝廷も兵をもってこれを鎮圧し、仲麻呂の計画は失敗、一族皆殺しという極刑に処されます(藤原仲麻呂の乱/恵美押勝の乱)。
これだけなら奸臣がいなくなって万々歳かもしれません。
しかし、上記の通り淳仁天皇はかつて仲麻呂と大変密接な関係にあったため、孝謙上皇から「アナタもアイツと同じ穴のムジナでしょ? 政治から引っ込んでもらうわね」(※イメージです)と言われ、淡路島に流刑となってしまったのです。
それが天平宝字八年(764年)10月9日のこと。
しかし、力が弱くてもそこは天皇。
仲麻呂と一緒に乱を起こしたわけではなかったので、淳仁天皇を慕う貴族もいくらかおりました。
淡路島なら平城京からも近いですし、実際に淳仁天皇の下まで行った人もいたようです。
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