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【淳仁天皇(淡路廃帝)】
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淡路島での逃亡失敗直後に亡くなっている
孝謙上皇からすれば
「アイツを放っておくとそのうちまた担ぎ上げられるかもしれない」
と警戒したくなるような状況だったでしょう。
結果、淡路島の警備が厳しくなり、天平神護元年10月、淳仁天皇は逃亡を実行。
しかし、すぐに捕らえられ、その翌日に亡くなってしまいます。
今より寿命が短いとはいえ、この流れで当時まだ33歳の淳仁天皇に何が起きたのか……想像に難くはありませんよね。
こういった経緯により、淳仁天皇は「淡路廃帝」と呼ばれるようになり、長い間「天皇」として認められませんでした。
正式に名誉が回復されたのは、なんと明治三年(1870年)のこと。
他の流罪や廃位された天皇とともに、明治天皇によって正式に歴代天皇の一人として扱われるようになったのです。
今でも、資料によっては「淳仁天皇(淡路廃帝)」というような書き方をされていることがありますね。
ちなみに、淳仁天皇が廃された後は孝謙上皇が重祚して称徳天皇になっています。
ついでに、流罪の話も少しだけ触れておきましょう。
流罪と追放の違いは?
淳仁天皇の場合は廃位された後も一応「親王」=皇族の一員として扱われていたので、淡路島での生活はさほど悪くなかったと思われます。
しかし、流刑とは元々「本来なら死罪だけど命だけは許してやんよ※イメージ」=「死刑から減刑したもの」という扱いだったので、基本的に罪人の生活の保障はありません。
江戸幕府の四代将軍・徳川家綱が少年の頃、「流罪にした者は何を食べているのか」と聞いたとき誰も答えられず、「命を助けたのに、食事の保証さえなければ見殺しにするも同然ではないか」とツッコミを入れ、それを聞いていた徳川家光が大喜びしたという話が有名ですね。
場合によっては配流先に送られる途中でブッコロされたり、あるいは逆に赦免されて地元に戻れることもあったそうなので、まさに天国と地獄という感があります。
パッと見よく似ている、「流罪」と「追放」の違いは「特定の場所に押し込めるかどうか」という点のようです。
現代で例えるとすれば、「流罪が禁錮」で「追放が出禁」みたいな感じでしょうか。
だいぶ罪の重さが違いますが、まぁイメージということで。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
高森明勅『歴代天皇事典』(→amazon)
淳仁天皇/Wikipedia
流罪/Wikipedia
日本における追放刑/Wikipedia