壬申の乱

大友皇子/wikipediaより引用

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壬申の乱で一体何が起きたのか? 戦いに敗れた大友皇子は首吊り死に追い込まれ

2025/07/22

天武天皇元年(672年)7月23日、壬申の乱に敗れた大友皇子が縊死(いし・首吊り死)を選びました。

歴史の授業でも取り上げられることが多いながら、実は謎多き壬申の乱。

途中で即位する人がいたり、追号を送られて名前が変わったりする人がいてややこしいため、今回は理解を重要視して最初の呼び名で統一しますね。

まずは天智天皇から天武天皇への変遷をざっくりと追ってみましょう。

弘文天皇(大友皇子)/wikipediaより引用

 


まずは10行で壬申の乱

まずは10行で当時の流れをまとめてみますね。

天智天皇(大化の改新をやった中大兄皇子の即位後)が弟の大海人皇子を皇太子にしようとする

途中で気が変わって、息子の大友皇子を皇太子にするかどうか迷う

大海人皇子が「直系の皇子に継がせるのが筋なので、私は出家します」と頭を丸める

天智天皇、息子の大友皇子を正式に皇太子へ

天智天皇が亡くなり、大友皇子が弘文天皇として即位(してないかも)

大海人皇子がなぜか反乱

【壬申の乱】勃発

大海人皇子側が連戦連勝

大友皇子が首を吊り、大海人皇子が勝利←今日ここ

大海人皇子が天武天皇として即位

天武天皇/wikipediaより引用

だいたいこんな感じです。

ただし『日本書紀』の話であって、いくらか事実がねじまg……省略されている可能性もあるようです。

これでは一度頭を丸めた大海人皇子が反乱を起こした理由がサッパリわかりませんし、記録にするとマズイ事情があったのかもしれません。

一応「これでは?」といわれている説はいくつかあります。

 


血筋から言えば大海人皇子に軍配があり……

ひとつは、皇位継承順が絡んでいるというものです。

大海人皇子は天智天皇の同母弟なので、父親も母親も天皇(舒明天皇&皇極天皇)。

天智天皇/wikipediaより引用

いわば日本における最高の血筋ですね。

一方、大友皇子の母親は天智天皇の女官だったといわれていて、同じ「皇子」でも大幅に身分が異なります。

このため、当人たちはともかく、周囲の豪族たちからすれば「より身分の高い方が皇位に就いて当然だろjk」という感じだったとしてもおかしくはありません。

結果、大海人皇子派と大友皇子派に分かれ、戦乱になった……という説です。

もうひとつは「天智天皇が改革的な政治をしたため、それについていけない豪族との不和が生まれ、それが世代を超えて引き継がれた」というものです。

皇極天皇の時代(正確には重祚した後なので斉明天皇)に、日本は朝鮮半島の国・百済復興のため兵を出したことがありました。

斉明天皇/wikipediaより引用

そして白村江で大敗北してしまうと、天智天皇は百済の人々を日本に移住させています。

そのためには新しい家その他諸々を用意してやらなければならず、その負担が豪族や一般庶民にのしかかり、天智天皇に不満を抱く勢力となって大海人皇子を即位させようとしたのでは?……という話です。

まぁ、これもありそうな話ですよね。

ちなみに「女性がらみでは?」なんて説もあります。

もしかしたらこっちのほうが有名でしょうか。

 

江戸時代に提唱された額田王を巡る説

女性がらみの女性とは、額田王(ぬかたのおおきみ)です。

万葉集に女性の歌があり、そのいくつかが彼女と天智天皇・大海人皇子との三角関係をうかがわせることから、この説が来ています。

確たる証拠はありません。

この説を言い出したのは江戸時代の人であり、昔から三角関係とか「王冠(皇位)をかけた恋」みたいな話は話題になりますから、創作の可能性が高そうです。

もしかしたらこの三つ全部が原因だったりするのかもしれません。

人心掌握については、大海人皇子が優れていたらしきことが記録されています。

大海人皇子は、上記の通り自ら皇位継承レースから一度降りているのですけれども、その後、出兵したとき、一度兵を引いて伊勢神宮に詣でているのです。

伊勢神宮・内宮の宇治橋鳥居

この時代ですから、神様は現代よりもっと重要な存在。

神を敬う姿勢を見せた大海人皇子についていこうと決めた豪族は数多く、地盤固めができた。

その後も各地の役人から協力を得て、着実に兵を集めていきました。

 


関東に大友皇子の墓がある!?

一方で大友皇子も味方を増やそうと努力はしていたようです。

しかし、大海人皇子についた人々に使者を妨害されたり、説得に失敗したりでうまくいきませんでした。

なんとか近隣から集めることができた兵は、悪い言い方をすれば寄せ集め。

自ら志願してきた大海人皇子方の兵には適わず、また指揮の面でも大海人皇子方が優れていたことで、大きく戦況が変わることはありませんでした。

そして進退窮まった大友皇子が首を吊る……という皇族としてはあまりにも悲惨な死を選ぶことになります。

一度は正式に皇太子になったのに、辛い話ですね。

ただし、例によって生存説もあるようです。

現在の神奈川県や千葉県あたりに大友皇子の墓(陵)とされるものや、大友皇子を祀っている神社があるとか。

いくら離れてるとはいえ、地続きのところに逃げてもいずれバレる気がするんですが……当時は富士川を越えたら異国ってことだったんでしょうか。なるほどわからん。

壬申の乱は、本能寺の変ほどの知名度ではありませんが、タイムマシンができたらぜひ真相を確かめてほしい事件の一つですね。


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【参考】
国史大辞典
本郷和人『壬申の乱と関ヶ原の戦い――なぜ同じ場所で戦われたのか (祥伝社新書)』(→amazon
壬申の乱/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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