藤原実資

藤原実資/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

道長にも物言える貴族・藤原実資『小右記』の著者は史実でも異彩を放っていた?

寛徳3年(1046年)1月18日は藤原実資の命日です。

以前だったら「いったい誰?」扱いされていても仕方がないこの貴族。

2024年の大河ドラマ『光る君へ』の放送により、一躍人気者に躍り出たのは皆さんご存知でしょう。

恰幅のよい身体つきに、黒光りした褐色の持ち主であるロバート秋山さんが、劇中で実資を演じたのです。

最初は「あの人で大丈夫なの?」と不安視もされた実資は、実際のところ勤勉実直な性格であり、前例主義を押し通す我の強さが魅力的でもあり、道長を描く作品には欠かせない人物とも言えますね。

というもこの藤原実資、頭脳明晰で知見は深く、天皇からの信頼も厚かった。

大権力者の藤原道長に尻尾を振ることもなく、当時は驚異的ともいえる90歳まで生きた、一筋縄でいかないタイプなのです。

いったい藤原実資とは何者なのか?

史実面からその生涯を振り返ってみましょう。

藤原実資/wikipediaより引用

 


藤原北家小野宮流を継ぐ

藤原実資は天徳元年(957年)、参議・藤原斉敏(ただとし)の四男として生まれました。

幼名は大学丸。

いかにも学問が得意そうな名前ですよね。

実資の家である小野宮流は、もともと藤原北家の嫡流でしたが、皇室の外戚ではありませんでした。

実資からみると大叔父である藤原師輔の娘・藤原安子が村上天皇の皇子を産んだため、師輔の家である九条流が嫡流として扱われていくようになっていったのです。

【参考】
藤原北家九条流

藤原師輔

藤原兼家(兄に藤原伊尹と藤原兼通がいる)

藤原道隆・藤原道兼・藤原道長

小野宮流は文化的な素養で独自の立場を築きはしますが、九条流に対する心境は複雑なものがあったようです。

そんな状況の中、実資は幼いうちに祖父・藤原実頼の養子となり、多くの財産と知識を継承。

藤原実頼/wikipediaより引用

長じた後は道長をはじめとする九条流の人々に対し、批判的な立場を貫きます。

ちなみに、実資の父・藤原斉敏と、藤原兼家の前に関白だった藤原頼忠は兄弟です。

【参考】
藤原北家小野宮流

藤原実頼

藤原斉敏・藤原頼忠(兼家の前の関白)

藤原実資

頼忠には藤原公任という息子がいて、実資とは従兄弟の関係でしたが、道長に追従する公任に対し、実資は日記『小右記』の中でかなり厳しめに記したこともありました。

 


天皇に信頼される蔵人頭だった

九条流の風下に立つ小野宮流の藤原実資。

それでも由緒正しい藤原北家の一員ですから、昇進は早めでした。

天元四年(981年)には天皇の秘書官長である蔵人頭となり、円融天皇を支えます。

円融天皇とは『光る君へ』で坂東巳之助さんが演じ、藤原兼家に毒を盛られたり、なかなか辛い場面が多い方ですね。

実資は、いったん左中将(さちゅうじょう)となりますが、永観二年(984年)に円融天皇が譲位して花山天皇が践祚すると、再び蔵人頭に就任。

花山天皇/wikipediaより引用

これまたドラマの話をしますと、花山天皇は子役時代にパワフルな変顔を見せたり、大人になってからも本郷奏多さんが足で扇を弄びながら下ネタを話したり、かなり癖の強い役どころでしたね。

両天皇のもとで蔵人頭に任命される実資が、優秀な官僚として信頼されていたことが伺えます。

花山天皇から一条天皇へ移り変わった際もいったん蔵人頭から退いていますが、再び返り咲いて永延元年(987年)~永祚元年(989年)までその地位にありました。

退任についても何か問題があったからではなく、蔵人頭より上の参議という官職に昇進したためです。

 


紫式部とのエピソードも

藤原実資は長寿ということもあり、かなりの長期間にわたって日記を書いています。

その中でも有名なエピソードのひとつが、長保元年(999年)に藤原道長の娘・藤原彰子が入内する前の話です。

道長は権威付けのため、公卿たちから和歌を集めて記した屏風を作り、彰子に持たせようと考えました。

清書も当代きっての名書家・藤原行成に依頼するという張り切りぶり。

和歌は藤原公任などの名歌人はもちろん、花山法皇も「詠み人知らず」という形で提供するという豪華さです。

当然のことながら実資にも作歌依頼がきましたが、彼は頑としてはねつけています。

「こんなことは聞いたことがない!」

と、前例のなさを理由に歌を提供しませんでした。

道長が何度も催促してもはねつけたそうですが、もともと和歌があまり得意ではなかったようで、その辺も一因だったのかもしれません。

一方で、彰子が敦成親王を産み、誕生後の【五十日祝い】にはきっちり参加しています。こちらは建前でしょうか。

紫式部日記』によると、実資は「女房の衣の袖や裾を見て数を数えていた」と言います。

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

一条天皇がたびたび倹約令を出していたため、それがきちんと守られているかどうかを確かめていたのではないか、という見方もあるようです。

紫式部は「お酒の席だし、私のことなどご存知ないだろう」と思い切って実資に自ら話しかけ、二~三言葉をかわしたとか。

このとき紫式部から

「芸が苦手なご様子で、自分の番が来ると無難な”千年万代”の歌でやり過ごしていた」

とも指摘されているので、宴で手持ち無沙汰になった(もしくはある程度時間が経つのを待っていた)ので、女房たちの衣装に目を向けたのかもしれません。

後述する『古事談』では実資の好色な一面を描いた逸話もありますし、ただ単に女房の品定めをしていた可能性もなくはないですかね。

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