ルートヴィヒ2世

ルートヴィヒ2世/wikipediaより引用

ドイツ

超絶イケメンだけど「狂王」でメルヘン趣味なルートヴィヒ2世 最期は変死

いつの時代でもどこの国でも、向かない仕事をせざるをえない人っていますよね。

各国の王族はその代表格でしょう。

長子が相続すれば世間的には丸く収まることが多いですが、本人としては「王様なんてまっぴら御免」というのもよくある話。

本日はその中でも比較的有名な、ドイツのとある王様のお話をいたしましょう。

1886年(明治十九年)6月13日は、バイエルン王・ルートヴィヒ2世が変死した日です。

美貌の家系で知られるバイエルン王家・ヴィッテルスバッハ家の中でも特に美形なことや「狂王」という不名誉な二つ名で有名ですね。

一族の中にはこれまた美女として有名なオーストリア皇后エリーザベトがいます。

エリーザベト皇后/wikipediaより引用

共に浮世離れした感性の持ち主だからか。

若い頃は仲が良かったそうで、エリザベートのほうが多少現実的だったのか、ルートヴィヒの将来を心配して、自分の妹・ゾフィーとの結婚を勧めたこともありました。

ルートヴィヒが二回も結婚式を延期したせいで話がこじれて、破談になってしまったのですが……。

前置きが長くなりました。

このイケメン王の一生を見てみましょう。

 


バイエルンで誕生 父は冷淡な人だった

バイエルンという土地はいろいろ形は変われど、12世紀からずっと同じ家が君主であり続けた、非常に歴史のある地域です。

彼はそうした土地の王子として、1845年にこの世へ生を受けました。

父王マクシミリアン2世は王としての職務を重視するあまり、子供たちには冷淡だったといいます。

しかし周りの教育係が良い人たちだったので、ルートヴィヒは彼らの薫陶を受けて育ちました。

この時代が彼の一番幸せな時期だったかもしれません。

しかし、9歳ぐらいから帝王学その他王として必要な教養をみっちり叩き込まれることになり、父との精神的な距離はますます離れていきます。

天国から地獄……。

とまではいきませんが、この極端な教育方針の転換が、彼の心の成長に大きな悪影響を及ぼしたようです。

ルートヴィヒ2世/wikipediaより引用

 


ノイシュヴァンシュタイン城

それがはっきり現れているのが、ルートヴィヒ2世のメルヘン趣味です。

彼はゲルマン神話や騎士伝説などの物語に憧れ、どうにかしてその世界を現実にしようとしました。

その表れが、現在観光名所になっているノイシュヴァンシュタイン城やリンダーホーフ城などです。

これぞ城の中の城!ノイシュヴァンシュタイン城/Wikipediaより引用

ノイシュヴァンシュタイン城について、ルートヴィヒ2世は「私が死んだら破壊するように」と言っていたご様子。

そう思った理由は謎です。

自分一人のものにしておきたかったからだろうとも言われていますが、他の人々は美しい城を壊すには忍びなかったようで、現在まで無事に残っています。

各国のディズニーランドにあるお城のモデルにもなっていますね。

ちなみに、ノイシュヴァンシュタイン城の近くに

【ホーエンシュヴァンガウ城】

というこれまた舌をかみそうな名前の城があり、ルートヴィヒ2世はここで幼少期を過ごしました。

新しく建てた夢の城から、幼き日の思い出が残った城を眺める……というのは、いかにもメルヘンな話ですよね。書いててこそばゆくなってきた。

ついでにいうと、女性嫌いで男性の近臣ばかりを寵愛していたので、この面からもあまり良い主君とはいえなかったようです。

現代だったら、まだ良かったんですけどね。

キリスト教社会では同性愛がご法度だった時代ですから、この点だけで「だめだこいつ早く何とかしないと」と思った貴族もいたでしょう。

リンダーホーフ城もまた壮麗/photo by Softeis Wikipediaより引用

 


ビスマルクを認めながら戦争に挑まねばならぬ苦悩

てなわけで家臣たちからの評判はあまり良くなかったルートヴィヒ。

1863年に対面したプロイセン宰相・ビスマルクには好感を持たれ、ベルリンの執務室にはルートヴィヒの肖像画が飾られるほどだったそうです。

ルートヴィヒもまたビスマルクに親しみと尊敬の念を持っていたとか。

ここから友好関係が続けば、もしかすると彼はもっと長生きしていたかもしれません。

ビスマルク/wikipediaより引用

残念ながら、彼の政治的な功績で特筆すべきところは皆無です。

そもそも積極的ではありませんでしたし、この時代はどこの国でも議会の権力が強くなっており、王様が率先して政治に関わる雰囲気ではなくなっておりました。

フランス革命以後、ヨーロッパではあっちこっちで革命も起き、ドイツでも同様です。

そのため、ルートヴィヒ2世は戦争が嫌いだったのですが、普墺戦争(ふおうせんそう)のときは議会に押し切られて参戦にGOサインを出さざるを得なくなってしまいます。

しかもよりによって、議会が味方しろといってきたのはオーストリアのほうでした。

ここから100年前にも同じ相手に2連敗している上、ときのプロイセン宰相は上記の通りビスマルクです。

なぜ勝てると思ったのかが不思議でなりませんが、それは後世から見ているからですかね。

ルートヴィヒ2世がこの戦争に反対したのも、ビスマルクの器量を実際に見て知っていたからだったのかもしれません。

案の定オーストリアが負け、バイエルンも多額の賠償金を負うことになりました。あーあ。

 

夜中にそりで遊んでいるところを目撃されるて……

その後、普仏戦争で弟・オットーが精神を病んで以降、ルートヴィヒもまた不可解な言動が目立つようになったといわれています。

昼夜逆転生活はまだいい。

一人で食事をしているときに客人がいるかのような言動を取ったり、夜中にそりで遊んでいるところを目撃されたり。

このままでは王としての責務を果たせないと感じた家臣たちは、ルートヴィヒ2世を廃位し、叔父のルイトポルトを摂政にして政治を執り行うことにします。

そしてその後ルートヴィヒは、バイエルン領内のベルク城という小さな城に送られました。

「殺す理由はないけど、政治にかかわれるような場所にいられると困る」というところでしょう。

しかし、着いた翌日、近隣のシュタルンベルク湖で侍医と共に亡くなっているところを発見されました。

死因は溺死とされましたが、ハッキリしていいません。

怪しいにもほどがあるやろ。

 


死を偲び湖面の際に十字架

そもそも彼が本当に精神を病んでいたのかどうか。

疑問の余地があります。

上記の通り普墺戦争で多額の賠償金を負った後も、ルートヴィヒ2世の建築道楽が直らなかったため、廃位の口実として偽の診断書を書かせたのが正しいのではないか?という説があるのです。

医師の診断記録や奇行の詳しい記録もありませんし、となると死因も極めて怪しい。

建築道楽がいかんというなら、もっとお金がかかる上に人命もかかり、王も反対していた戦争などかかわらなければ良かった話ですし。

「余は湖で泳ぎたい!」
「やめてください!」
「えーい離せ!」
「暴れないでくださ……あああ!!!!」(バッシャーン)
~完~

みたいなことは……ないですよね……。

ルートヴィヒ2世は、当時嫌われていた作曲家ワーグナーを庇護したり、彼が建てた中では唯一完成したリンダーホーフ城の設計者であるカール・エフナーには貴族の位を与えるなど、気前の良い面も持っていました。

この人たちから見た印象が明らかになれば、もう少し素の姿がわかるんですけどね。

残念ながら資料が見つかりません……。

シュタインベルク湖には、ルートヴィヒ2世を偲ぶ礼拝堂と、湖面の際に十字架が建てられたといいます。

少なくとも民衆にとっては「美しく立派な王」と見られ続けていたのでは?

かつての友人・エリーザベトも、彼の死後に「あの人は夢を見ていただけでしょう」と弁護に近い発言をしています。

はてさて、本当はどんな人だったのでしょうね。

長月 七紀・記

【参考】
ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)/Wikipedia
ノイシュヴァンシュタイン城/Wikipedia
ベルク城/Wikipedia

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