こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【オスカー・シンドラー】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
工場のユダヤ人を保護 ワイロも上手に使いながら
ドイツ軍の厨房で使う器具の製造を請け負ったことにより、オスカーの工場は急成長していきました。
初期の段階で250人もの人を雇っており、その中にユダヤ人が数名含まれていたことが、オスカーと他のユダヤ人の運命を決めます。
三年ほどで工場の規模も従業員も数倍になり、既にゲットー(ユダヤ人”居住区”とは名ばかりの軟禁区域)に押しこめられていたユダヤ人も370人雇われていたといいます。
オスカーはいわゆる伊達男で、オシャレを楽しむ男でした。
同時に経営者として従業員に気を配ることもでき、ユダヤ人たちが物々交換や賃金の足しにできるよう、タバコを“うっかり”置き忘れることもありました。
ゲットーは狭いエリアにかなりの人数を押しこめていたため、食料や衛生事情が極めて悪く、普通に生きていくだけでもやっと。
ユダヤ人以外で多くの人は見て見ぬふりをしていましたが、オスカーは知っていたようです。
まあ、当時の状況で、堂々とナチスに逆らえる人はそういませんから、仕方のない面もあります。
オスカーの他にも、自分の工場で働くユダヤ人をできるだけ保護しようと努めた経営者はいたようで。
彼がかなり大胆なユダヤ人保護をすることができたのは、ナチスであったことや、彼の工場が軍需工場として特別扱いになっていたこと、そして多額の賄賂をしたことが大きな理由でしょう。
どれか一つでも欠けていたら、彼自身も危険に晒されていたに違いありません。実際に、事情聴取を受けたことは複数回あります。
強制収容所ら800人を救出 あのアウシュビッツからも
戦況が進むにつれて、ゲットーのユダヤ人は徐々に強制収容所へ連行されていきました。
オスカーは「自分のところで働くユダヤ人は皆生産に関わっているので、連れて行かれては困る」と主張し、ユダヤ人従業員やその家族を出来る限り保護していきます。
しかし、オスカーの庇護にも限界がやって参ります。
1943年の春、クラクフのゲットーが解体されることが決まり、まだ残っていたユダヤ人たちは近隣にあるプワシュフ強制収容所に移送されてしまったのです。
ここの所長は、ナチスの中でも特に残忍かつ悪趣味なアーモン・ゲートという男。
ゲートの所業についてはガチで気分が悪くなるので、この記事では詳述しません。耐性のある方はご自身でお調べいただければ……。
オスカーにとっては、ゲートが知人だったことがある意味では幸運でした。
賄賂を掴ませた上で「工場の近くに家があったほうが都合がいい」と交渉し、自分の工場で働いていたユダヤ人の移住許可を取り付けることができたのです。
1944年末には、いよいよドイツが劣勢となり、機密保持等のため、強制収容所の解体とそこにいたユダヤ人の処分が決まります。
このときオスカーは「ブリュンリッツ(現在のチョコ・ブルニェネツ)で新しく工場を買ったので、物資生産のための労働者がほしい」と持ちかけ、収容所から800人を救出しました。
このうちユダヤ人は700人で、その中に女性が300人いたそうです。
途中で女性たちが一時アウシュヴィッツ強制収容所に送られるという事故が起きましたが、オスカーは直ちに向かい、救出しています。
このときアウシュヴィッツからさらに120人の救出に成功。
しかし、移送の貨物車もひどい状態で、13人が凍死してしまったそうです。他の107人も危険な状態だったため、直ちに医療措置が取られ、何とか生き延びました。
オスカーは凍死者の遺体をドイツ軍に渡すことも拒否し、土地を買って、ユダヤ教のやり方で葬儀を行ってから埋葬しています。
※続きは【次のページへ】をclick!