久米久太郎

新発田藩の藩庁があった新発田城

江戸時代

親の仇を捜し続けて41年|新発田藩士・久米幸太郎が本懐を遂げた先に

2024/10/08

殺された親族や主君の仇を討つ!

忠臣蔵』はじめ壮絶な「仇討ち」は時代劇の定番テーマですね。

史実における【赤穂事件】も「日本三大仇討ち」に数えられるほどで、我々の歴史に深く根付いています。

しかしながら、捜査や通信の技術が発達していない江戸時代。

実際問題、仇を見つけ出して討ち果たすのは容易ではありませんでした。

遠くに逃げた相手を見つけられなかったり。見つけても返り討ちにあったり。探し出すのに時間がかかりすぎていて、当の仇が既に死んでしまっていたり……。

一説によれば、その成功率は1%ほどだったといいますから「武士の掟」も非常に過酷でした。

さような厳しい状況の中、なんと41年もの長きにわたって憎き相手を探し続け、安政四年(1857年)10月9日、ついに宿願を果たした人物がいます。

江戸時代後期の実在した久米幸太郎です。

日本三大仇討ちにこそ数えられませんが、現在までに伝わる記録の中で、最も壮絶な話の一つ。

それは一体どんな内容だったか?

振り返ってみましょう。

 


7歳にして父を殺された幸太郎

事の発端は文化14年(1817)12月20日のこと。

越後国(現在の新潟県)新発田藩で、滝沢休右衛門という男が同僚の久米弥五兵衛を殺害しました。

囲碁の対局中口論になったとも、藩金の横領が発覚するのを恐れ口封じに殺したとも言われています。

当時、弥五兵衛の長男幸太郎は7歳、弟盛次郎は5歳。

大黒柱を失った久米一家は、藩からの援助でなんとか糊口をしのぎます。

そして文政11年(1828)、18歳になった幸太郎は幕府に仇討ちを願い出て、免状をもらいます。

新発田城の本丸表門

幸太郎は藩からも資金を受け、弟の盛次郎、叔父(弥五兵衛の弟)の板倉留六郎の3人で仇討ちの旅に出ました。

留六郎は進んでいた縁談を苦悩の末断ってまで、助太刀として参加したのです。

 


仙台藩領・洞福寺にいる僧侶が怪しい……

途中、三手に分かれたり、重病を患ったり、お金が尽きて僧侶に化けて托鉢をしたり。

仇討ち探しの旅は、相当な困難を極めました。

そんな折、幸太郎は、仙台藩領・洞福寺(現在の石巻市)という寺の僧侶・黙照が「どうも滝沢休右衛門らしい」という情報を得ます。

本当にその僧侶が滝沢なのか――幸太郎は黙照の姿を盗み見たものの、そもそも滝沢の面体を知らないので確証が持てません。

いったん新発田藩へ戻り、滝沢の知人に同行を願い、再び洞福寺へ向かいました。

そして黙照が休右衛門である事を確認!

執念、おそるべしですね。

なんでも滝沢休右衛門は、逃走中に僧侶となって黙照と名乗り、寺院を転々としながら洞福寺に身を寄せていたようです。

内心、仇討ちや藩の追手に怯えていたのでしょう。

他国者を異常なほど警戒し、刀の仕込み杖を使用したり、懐刀を常に忍ばせていたという伝承が残っています。

 

五十鈴神社の麓で襲撃

寺社での仇討ちはご法度のため、幸太郎は、黙照が外出した帰路の祝田浜(いわいだはま)で待つことにしました。

具体的には五十鈴神社の麓で襲撃することにしたのです。

以下、仇討ちのくだりは物語風に語ります。あしからず。

――安政四年(1857年)10月9日。

幸太郎が五十鈴神社で待ち潜んでいると、仇の黙照が通りかかった。

息を呑みつつ、物陰から出て、呼びかける。

「滝沢休右衛門か」

「誰だ?」

「拙者は久米弥五兵衛の遺児、久米幸太郎なるぞ!」

突然のことに狼狽する黙照。

幸太郎の横には旧知の藩士もいて、もはや言い逃れはできない。

観念した様子の黙照も、既に82歳の老人であり、年老いた仇の姿に幸太郎は一瞬ためらいを覚えたが、すぐに意を決する。

父の仇に一太刀を浴びせ、さらにとどめを刺した――。

こうして幸太郎が本懐を遂げたとき、仇討ちの旅から30年、父・弥五兵衛の殺害からは41年の月日が流れていました。

 


幸太郎、その後の人生は?

7歳で父を殺され、18歳で仇討ちの旅に出て、30年後、もはや死期は近いであろう老人を殺して思いを遂げる。

壮絶としか言いようがありません。

そして仇討ちを終えた彼の後半生も、幸せとは言い難いものでした。

青年期から壮年期までずっと仇討ちの旅をしていたので、実務や経営のノウハウが身につくはずもなく、帰郷後についた奉行の職も、明治維新後に始めた事業も、うまくいかなかったようです。

明治6年(1873)、明治政府の法令により、仇討ちは禁止されます。

自分が人生をかけた行為が犯罪とされる社会になってしまった――それを幸太郎はどんな思いで見ていたのでしょうか。

明治24年(1891)、幸太郎は数奇な生涯を終えました。

数え年で82。皮肉にも、仇敵滝沢休右衛門と同じ享年でした。

石巻市には、今も久米幸太郎仇討ちの地に石碑が残っています。

久米幸太郎仇討ちの石碑/石巻観光協会サイトより引用(→link


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三城俊一・記

【参考】
石巻観光協会(→link
『堂々日本史〈18〉』(→amazon

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三城俊一

文筆業・塾講師・教材制作者。歴史分野の書籍及び社国の教材制作にて実績多数。著書•編書に『図解東アジアの歴史』(SBビジュアル新書)、『なぜ、地形と地理がわかると現代史がこんなに面白くなるのか」(洋泉社)、『死ぬまでに攻めたい 戦う山城50』(イースト・プレス)。◆国立国会図書館データ(https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001257469)

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