臼井六郎

臼井六郎/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

父と母と妹を無惨に殺され犯人は無罪~臼井六郎が12年かけた日本最後の仇討ち

「倍返し」をキーワードにした半沢直樹――。

あの作品がなぜ大きな話題となったのか?

現実社会でも「いつかリベンジしたい相手がいる」という視聴者が多かったからなのでしょう。

しかし、実際は難しいケースが多く、だからこそ「やらない・やれない」人のほうが多いもの。

今回注目するのは、それを顧みず仇討ちをやってのけた、とある人に注目です。

明治十三年(1880年)12月17日、臼井六郎(うすい ろくろう)という人物が日本最後の仇討ちをしました。

日付的には江戸時代赤穂事件と近いですが、事件後の扱いについては、時代の移り変わりを感じさせるものとなっています。

事の始まりから、順を追ってみていきましょう。

臼井六郎/wikipediaより引用

 


藩内の尊皇攘夷派に疎まれた父が……

臼井六郎は、安政四年(1857年)頃に秋月藩士・臼井亘理(わたり)の息子として生まれたといわれています。

幕末のいろいろと押し迫った時期ですね。

父の亘理は身分が低いながらに信頼されていたようで、鳥羽・伏見の戦い(1868年)の際は重要拠点の京都におりました。

鳥羽・伏見の戦い(上:富ノ森の遭遇戦と下:高瀬川堤での戦闘)/wikipediaより引用

そしてその年の5月に秋月藩へ帰り、「上方はこれこれこういう状況だから、我が藩も開国派になったほうがよろしいでしょう」と上申。

すると、尊王攘夷派の癪に障り、その中でも過激だった干城隊という一派によって、亘理は妻と幼い娘と共に、自宅で暗殺されてしまったのです。

息子の六郎だけは、たまたま別室で寝ていて助かったのだとか。祖父、もしくは乳母と一緒にいたとされています。

安政四年生まれとすればこのとき10歳ちょっとの頃ですから、記憶が曖昧になってしまったのでしょう。

ともかく、藩内、しかも藩士同士の殺人事件となると一大事なわけで、藩から下された裁定は無情なものでした。

「亘理は自らまいた種で殺されたのだから自業自得。本来なら家名断絶だが、代々の働きに免じて減給で勘弁してやんよ」

「そんな不届き者を始末したのだから、干城隊は無罪」(意訳)

残された六郎や祖父にとっての悔しさ、いかばかりか……。

とても受け入れられるものではありません。

 


「名刀で亘理のアホを斬ってやったんだぜw」

まだ元服もしていなかったであろう臼井六郎は、すぐに行動を起こすことができませんでした。

ひとまず父方の叔父へ身を寄せ、文武を学んでその機会を待つことになります。

そしてある日、六郎にどこぞの神様が味方したかのような機会が訪れます。

藩校で「ウチの兄貴、家に伝わる名刀で亘理のアホを斬ってやったんだぜw」(※イメージです)と自慢していた人物がいたという話を聞きつけたのです。

ついに仇の手がかりが得られた六郎は、調べを進めました。

結果、父は「一瀬直久」に殺され、母は「萩谷静夫」という人物に殺害されたことが判明。

養父に仇討ちの相談をすると、敢えなく止められてしまいました。

それでも六郎は諦めません。

一瀬直久が明治五年(1872年)に一家揃って上京したことまで掴むと、「東京で勉強したい」と願い出て上京したのです。

東京では外務省に勤めていた別の叔父の元で厄介になったようです。行動を怪しまれて、仇討ちを止められていないあたり、普段はちゃんと勉強していたんでしょうね。

それでいてこの執念の保ち方はまさに武士というか、戦国時代の長連龍を彷彿とさせます。

※以下は「長連龍」関連記事となります(記事末にリンクあり)

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信長に仕えて復讐の機会を待ち続けた長連龍「一族殺戮の恨み」を倍返しだ!

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「一瀬は名古屋の裁判所で働いているらしい」

「甲府裁判所に異動になったそうだ」

そんな情報を聞きつけるたびに、六郎はそれを追って現地に行きましたが一瀬と会うことはできないまま、時は過ぎていきます。

ようやくその時がやってきたのは、父が討たれてから12年後のことでした。

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