確かに、長い時を経て、あるいは全く別の場所で、偶然似たような出来事が起きることもありますね。
宝永6年(1710年)12月17日は、東山天皇が崩御された日です。
江戸時代の天皇はほとんど話題になりませんが、この方はとある有名な事件があった頃に在位していました。
さっそく振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
儒学を重んじ、皇室を尊崇する綱吉の治世に即位
東山天皇は延宝三年(1675年)、父・霊元天皇の第四皇子として生まれました。
三人いた兄は、早世したり、母親の身分が低かったりしたため、東山天皇が8歳で親王宣下を経て皇太子になっています。
このころ江戸幕府は五代将軍・徳川綱吉の時代でした。
犬公方のイメージが強い綱吉ですが、歴代将軍の中でも特に儒学を重んじたり、皇室を尊崇していたり、文治政治(武力ではなく法律や儒学で国を治める)を推し進めたとして最近は評価も非常に高まってきていますね。
実際、東山天皇は、幕府の援助により立太子の儀式ができたと伝わります。
しかもこの儀式が行われたのは、実に300年ぶりのこと。
そんなにも昔の儀式のやり方が伝わっているところが、皇室の地味にスゴイところですよね。
それから四年経った12歳で元服し、続けて践祚・即位しましたが、父・霊元天皇が院政を敷いていたため、親政とはなりませんでした。
これまた長く途絶えていた大嘗祭(天皇が即位して初めて行う新嘗祭=その年の収穫を神に感謝する儀式)を復活させたのも、霊元天皇の意向とされています。
しかし、ずっと親に首根っこを押さえられているというのは気分が良くないものです。
東山天皇も15歳の頃から、近衛基熙という幕府と親しい公家とコンビを組み、親政を目指していました。
近衛家・御三家・上杉家……と婚姻関係が複雑すぎて
近衛基熙との関係は、朝廷と幕府の関係にも影響していきます。
このころ近衛家と御三家、そして上杉家が姻戚関係にあったからです。
具体的にはこんな感じでした↓
◆近衛基熙の娘・熙子→甲府徳川家・徳川家宣(後の六代将軍)の正室
◆綱吉の娘・鶴姫→紀州藩三代・徳川綱教(つなのり)の正室
◆綱教の姉妹・栄姫→米沢藩四代藩主・上杉綱憲(つなのり)の正室
◆近衛基熙の叔母→水戸藩二代・光圀の正室
三角関係なんてメじゃないようなややこしい状況ですね。
さらに、綱吉の一粒種・徳松は天和三年(1683年)に亡くなっていましたし、綱吉にはその後息子が生まれず、後継者問題が持ち上がります。
松の廊下刃傷事件、勃発!
徳川宗家に嗣子(しし・跡継ぎ)がいない場合、真っ先に候補に上がるのは御三家の人々です。
そのために作られた家ですから当たり前ですね。
次いで、綱吉の甥という血筋の近さから徳川家宣が有力候補となります。
また別のポイントとしては、
「上杉綱憲は吉良義央の実子で、上杉家へ養子入りした人である」
「東山天皇は近衛家を通じて、次期将軍の人選に口を出しやすい状況だった」
ということが挙げられます。
そんな中で起きたのが【松の廊下刃傷事件】です。
浅野内匠頭長矩が江戸城の松之廊下で、吉良上野介義央を斬りつけた事件で、赤穂浪士討ち入りのきっかけになったことで有名ですね。
この事件は、東山天皇から送られた勅使と、霊元天皇(上皇)からの院使が、江戸へ下向している最中に起きたものです。
実は東山天皇は、この事件の被害者である吉良義央を嫌っていたフシがあります。
吉良義央は、幕府の朝廷政策を伝える役目をしており、東山天皇からすると気に触ることが多かったとされているのです。
政策を決めたのは幕府であって、義央ではないのですが……いつの時代も、直に顔を合わせる担当者が割を食いやすいのかもしれません。
※続きは【次のページへ】をclick!