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【東山天皇】
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「なぜ浅野家を見殺しにしたのか!」
浅野家は、浅野長矩の祖父の代で内裏の修理を行っていたため、東山天皇としては浅野家や赤穂藩に何となく好意を抱いていたようです。
そのためか、帰洛した勅使・院使の3名には
「将軍へ何の取り成しもせず、浅野長矩と浅野家を見殺しにしたのはけしからん!」
として、参内禁止の処分を行っています。
確かに、朝廷の代理人である勅使・院使たちが口添えすれば、綱吉も少し頭を冷やし、幕閣へ時間をかけて審議するよう命じたかもしれません。
さらに「赤穂藩の浪士たちが吉良を討ち取った」と伝え聞いたとき、東山天皇は嬉々とした様子だったとか。
そして、綱吉が正式に跡継ぎを決めたのは、赤穂浪士の切腹の翌年。
当初、綱吉が推していたのは娘婿である綱教でしたが、最終的には甥の家宣を選んでいます。
上記の通り、家宣の正室は近衛家の出身です。
となると、東山天皇が近衛家を通じ、
「過日の無礼についてはそちらで始末もついていることだし、家宣を次期将軍にするのなら不問にする」
というようなことを持ちかけていても、おかしいことではありません。
常日頃から尊皇の意思を見せ、朝廷との関係を良好にしていた綱吉相手だからこそ、できた手だともいえましょう。
綱吉の死後間もなく天然痘で崩御
これで朝幕関係が密かに結びつき続けていれば、幕末への流れもだいぶ変わっていたのではないかと思うのです。
が、綱吉が亡くなって半年もしないうちに、東山天皇もこの世を去ってしまいます。
天然痘だったとされていて……そういえば、幕末の孝明天皇もゴタゴタの中「“天然痘”で急死した」ことになっていますね。
お二人とも政治的にアヤシイ情勢の中、30代半ばという若さで、かつ天然痘での急死……何やら寒気がしてきます。
ついでにいうと、東山天皇が亡くなったとき、父の霊元天皇はまだ存命中でした。
きっと偶然デスヨネ……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
東山天皇/wikipedia
デジタル大辞泉
霊元天皇/wikipedia