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【臼井六郎】
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いざ仇討ちを果たした後は淡々と
このころ「一瀬は東京上等裁判所にいるらしい」との情報を掴んだ六郎は、都内のあちらこちらで復讐の機会を伺いました。
そしてこの日、最後の秋月藩主だった黒田長徳の屋敷から戻ってくる途中の一瀬を襲い、念願を果たしたのです。
六郎はその後、自ら人力車で警察に出頭しました。
血まみれになっていた羽織を脱いでから人力車を呼んだそうで、不気味なほどの冷静さというか、仇以外の人への気配りがうかがえるというか……。
とはいえ自首をしたのですから、当然取り調べを受けることになります。
そして六郎は裁判にかけられ、終身禁獄の刑が決まりました。
江戸時代には「殿様などの目上や、父母など尊属にあたる人の仇討ちは殊勝なこと」として、法の手続きをしていなくても許される傾向にありましたが、この頃には仇討ち禁止令が出ていたためこのような裁きとなったのです。
ちなみに、仇討ち禁止の法律が出される前には、旧赤穂藩で別の仇討ち事件が起きていました。
偶然といえば偶然ですが、すさまじい話です。
憲法発布の恩赦で釈放
六郎の仇討ちは、まだ江戸時代の記憶も色濃い当時ですから、世間では「親の仇を取った孝行息子」と受け取られ、本や芝居の題材にもなったとか。
そして本人も10年ほどおとなしく刑に服し、明治二十三年(1890年)前後に大日本帝国憲法発布のため恩赦が実施、釈放されています。
復讐以外の罪がなく、刑務所での態度も良かったのでしょう。
両親を弔うためにお寺を作ろうとしたものの叶わず、台湾に渡ろうとしたところ、親戚に説得されて日本に留まったといわれています。
結婚もして、その後は妻と共に商売をして過ごしました。
最初は妻・雪子が病気がちな六郎を支えるため、饅頭屋を営んでいたそうですが、明治三十九年(1906年)に九州鉄道鳥栖駅の拡張が行われた際、駅前に引っ越して待合所の経営に切り替えたとか。
その後、六郎は再び罪を犯すこともなく過ごし、大正六年(1917年)に病死しました。
安政四年の生まれであれば、ちょうど60歳=還暦で亡くなったことになりますね。
還暦といえば、昔は赤いちゃんちゃんこを贈る習慣がありました。
新生児の産着に赤い色を使うことから、「暦が一巡りした=生まれたときに返る」意味があったそうで。
六郎は復讐を果たして罪を償い、真っ当な人生を送り直して、もう一度生みの親に会いに行ったのでしょうか……なんて、ちょっとセンチメンタルがすぎますかね。
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長月 七紀・記
【参考】
宮武外骨『文明開化4裁判篇』/国立国会図書館
臼井六郎/Wikipedia