「国民の気性は、国土に流れる川の様相に対応する」という例え話があります。
例えば日本の場合、幅が狭く流れの速い川が多い=日本人はせっかちである、などです。
これが本当であれば「大陸の人々はどこの民族でも気長」ということになりますが、あながち否定もできません。
スペインのレコンキスタにしろ、ユダヤ人のイスラエル帰還にしろ。
先祖代々どころではない気の遠くなるような時間をかけて、何かを果たしたことがあるというのはやはり大陸国の特徴でしょう。
面白いことに、中東とヨーロッパにはこうした傾向が見られるのですが、同じ大陸国かつ先進国であった中国では、代々受け継ぐどころか自ら文化を焼き払うという悪習ががが。
それはさておき、本日はそんな「気が長いってレベルじゃねーぞ!」の一例をご紹介しましょう。
1880年(日本では明治十三年)の8月14日、ドイツの観光名所のひとつ・ケルン大聖堂が完成しました。
ケルン大聖堂は3代目
ケルン大聖堂と言えば、ドイツを代表する巨大建造物。
たしかにその威容は凄まじいものがあり、さらに凄いのが完成までの経緯です。
実はこれ、三代目の建物なのです。
じゃあ初代と二代目はどうなってしまったんだよ?
というと、案の定、お亡くなりになってしまっています。
ほとんど地震のない土地で「神の家」とも称される宗教施設がなぜ?
というと、建っていた場所がよりによってドイツだからです。
ドイツという国は19世紀になるまで小国が乱立しっぱなしで、同じ民族での団結とかまとまりとか、共同作業なんてとてもできる状態ではありませんでした。
しかも周りの国がしょっちゅうあれやこれやと口を出してはドイツへ戦争をしにやってくるものですから、そう簡単に収まるはずがないという実に残念なお話です。
ケルンという土地自体はカトリックのお偉いさん(司教)の赴任地として古くから有名だったので、「ふさわしい聖堂を建てなくては!」となったのは自然な流れなんですけどね。
初代の聖堂が完成したのは、4世紀頃のことと言われています。
現在のケルン大聖堂は正面にある二つの塔が印象的ですが、初代はもっとシンプルな正方形の建物だったそうです。
二代目は818年に完成。
日本だと平安時代ですね。
新約聖書の重要人物・東方の三博士の遺物が安置され、巡礼地の一つとして栄えました。
東方の三博士とは、キリストが生まれたときにどこか東のほうからやってきて祝福したといわれている三人のこと。
一人一つずつ捧げものをしたので、三人だったとされています。
キリストが生まれた当時の「世界」はせいぜいローマからメソポタミアくらいまでと認識されていたでしょうから、東方といってもアジアではなく中東あたりでしょう。
しかし、これまた1248年に起きた火災のせいで、憂き目を見るどころか地上から消えてしまいました。
13世紀に消失した2代目から再建までの長い道のり
そして二代目の焼失直後から、三度目の正直をかけて現在の姿になるまでの建設が始まり、1880年に完成したというわけです。
足掛け600年!
なぜ、こんなにも時間がかかってしまったのか。
その間のドイツ地方及びヨーロッパに起きた出来事を並べてみると納得できると思われます。
1世紀ごとにまとめるとこんな感じです↓
【13~19世紀のドイツ】
13世紀 三代目ケルン大聖堂着工
→東からモンゴル帝国が迫る
14世紀 ヨーロッパ全土でペストが大流行
15世紀 東ローマ帝国滅亡
→ヨーロッパに「オスマンの脅威」が迫る
16世紀 宗教改革でカトリック教会が深刻な財政難になる
17世紀 三十年戦争
18世紀 フランス革命・ナポレオンとドタバタの後神聖ローマ帝国が解体
19世紀 ドイツが(やっと)統一
→ケルン大聖堂完成
あんなデカい建物を建ててる場合じゃないのです。
これがバチカンでは16~17世紀にサン・ピエトロ大聖堂が建てられています。
イタリアには教皇がいて、ミケランジェロなど優秀な芸術家を支援したからこそできたのでしょう。
地理的にもローマはヨーロッパの中心からは少し離れていますし。
一方、ドイツは文字通りヨーロッパのど真ん中で、特に三十年戦争あたりからあっちこっちの国が首と手を突っ込んできている状態ですから、大聖堂建築どころか国の統一まで遅れてしまったのでした。
ちなみに日本の歴史に置き換えるとだいたい
【鎌倉時代から明治時代】
にあたります。
こっちのほうがわかりやすいですかね。
正式名称は聖ペトロと聖母マリア大聖堂
こうして膨大な時間をかけて完成した大聖堂。
正式な名前は「ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂」といいます。
日本語に訳すと「聖ペトロと聖母マリア大聖堂」ですかね。
ドイツ語にしては実に短い単語ばかりでありがたいものです。
今では大聖堂の目の前まで鉄道が走っているのですが、それでも巨大なゴシック建築の存在感は随一。
その大きさが禍いして、第二次大戦の際は爆撃の目印になってしまいました。
しかし、ステンドグラスや装飾部分が壊れても全体としては存続し続け、傷を負いながらもその堂々たる姿に励まされた市民も多かったといわれています。胸アツ。
そのくらいデカい建物なので、近付けば近付くほど見づらいそうです。
物理的には当たり前の話なんですけども、「神に救いを求めるための施設」であることを考えると、何だか皮肉なものを感じますねえ。
長月 七紀・記
【参考】
ケルン大聖堂/wikipedia