古関裕而

古関裕而(撮影1955年)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

古関裕而~朝ドラ『エール』主人公モデル~激動の作曲家人生80年を振り返る

テーマや詩を前にして、その情景を思い浮かべる。

すると、音楽がどんどん頭の中に湧いてくる

平成元年(1989年)8月18日は古関裕而の命日です。

2020年朝ドラ『エール』主人公のモデルであり、ドラマでは窪田正孝さんが演じていたのを覚えていらっしゃるでしょうか。

はて、そんな人、知らんな……という方はいても、以下の古関氏の曲名を見れば、一度も聞いたことがないとは言えないはず。

【古関裕而の代表曲】

『君の名は』記録的人気ドラマの主題歌

『長崎の鐘』長崎原爆の悲劇を描いた随筆を歌謡曲に

『栄冠は君に輝く』甲子園のテーマ曲

『六甲おろし』阪神の応援歌

『闘魂こめて』巨人の応援歌

『紺碧の空』早大の応援歌

『我ぞ覇者』慶大の応援歌

特に真夏ともなれば、好き嫌いに関わらずこの曲が耳に入ってくることでしょう。

 

人々の魂を揺さぶるような。

奮い立たせるような。

戦時中の慰問先では地獄のような体験を経ながらも、日本人の心に潤いを供給し続けてきた。

稀代の作曲家・古関裕而の生涯をたどってみましょう。

古関裕而(撮影1955年)/wikipediaより引用

 

本当の空の下で生まれた古関裕而

日本を代表する詩人・高村光太郎に、妻の智恵子が、こうせがんだことがあると言います。

「東京にはない、本当の空が見たい」

智恵子が見た本当の空とは?

阿武隈高地・安達太良山の上に広がる空のこと――。

そんな阿武隈高地に囲まれた福島県福島市で古関勇治は生まれました。

時は、元号が明治から大正へとなった1909年。盆地の福島は、山に囲まれた街です。

両親は長い間、子に恵まれず、養子を検討していたところでの男子誕生でした。

実家は呉服店の「喜多三」。古関最古の記憶は、母の背におぶさっていたそのぬくもり、そして子守唄です。汽車を見ること、そして音楽が大好きな少年でした。

音楽を愛する父は、当時まだ珍しいレコードをかけていました。

使用人の娯楽のために購入したもので、古関と音楽の本格的な出会いとなります。

商売は繁盛しておりました。

小僧10人が働いているほどの規模で、購入したのは蓄音機だけでなく、当時、東北で2台目というナショナル金銭登録機(レジのこと)が店にあったのです。

近所の魚屋には、野村俊夫という活発なガキ大将が住んでいました。

この街で遊んだ少年たちは、将来再会を遂げることになります。野村が作詞、古関が作曲家となるのです。

1916年(大正5年)、古関は福島県師範附属小学校に入りました。このころ世界は第一次世界大戦の真っ最中ですが、福島で学ぶ少年には想像もできないことです。

三年生になったとき、担任の遠藤喜美治は音楽の指導に熱心な教師でした。

彼は、1918年(大正7年)の『赤い鳥』創刊が契機である童謡運動の影響を受けていたのです。それは古関の小さな胸に刻まれました。

音楽の喜びに目覚めた古関は物静かながら、作曲となるといきいきして、たった一人で励むようになります。

同級生は彼に詩を持ち込み、それに古関は曲をつけるのでした。

まだ五線譜ではなく、数字譜の時代。古関は夢中になって楽譜を買い漁ります。

お気に入りの楽譜の表紙絵は、竹久夢二でした。

ともかく楽譜が欲しい。

小さな胸に、たくさんのメロディをつめこむ我が子に、母は卓上ピアノを買い与えました。

夢中になって演奏するうちに、習うでもなく彼は作曲を覚えてしまいます。音符、記号、楽譜の記述方……メキメキと、少年は音楽を頭に詰め込んでいくのです。

時は大正、流行歌の時代。福島の空の下で、音楽の寵児が育っていくのでした。

 

そろばんよりも音符に夢中

県立福島商業高校に進学した古関は、相変わらず音楽に夢中でした。

国語の時間ですら、音楽のことを一方的に語るほど。呉服屋の後継として、そろばんを学ばねばならないのに、頭にあるのは音符ばかりなのです。

このころ、日本も、家も、大いに揺れていました。

1923年(大正12)年に関東大震災が発生したとき、古関は楽器を買うべく書店にいました。

そのとき、揺れは福島でも感じられたほどであったのです。

家業も傾きます。

第一次世界大戦後にインフレが日本を襲ったのです。

呉服屋も傾き、使用人は暇を出され、染物屋になるしかありません。

そんな時なのに、古関はやはり作曲のことしか考えられない。教師が止めても、ずーっとハーモニカを演奏している。

弁論大会でハーモニカ合奏がされることになり、古関は意気込んで立候補しました。

家業のことよりも、彼が振り返る思い出は音楽のことばかり。

当時の学友は、音楽のことばかりを考えている、変な坊ちゃんとして彼のことを記憶しているほどです。レコードを聴いてそのままさっさと楽譜に書きつける古関の姿は、印象的なものでした。

古関は音楽だけでもなく、文才や画才もあったようです。ゲーテやシラーを愛読していました。

こうした関心は未来の妻・金子にもありました。

世界の全てを芸術にする――そんな奔放な存在だったのです。

 

作曲が趣味、そんな銀行員

商業高校を卒業しても、古関は福島市の『福島ハーモニカ・ソサエティー』入会の方が気になって仕方ないのでした。

無事に、ここで指揮を取れたことに古関は感動しています。

音楽が好きで、夢中で、作曲のことしか頭にない。卒業後17歳になった古関は、周囲からするとかなり変な奴でした。

音楽好きの仲間が聞かされた、フランスやロシアの民謡に熱中したり。家が大変なのに楽譜を買い込む我が子に、父が激怒したり。

家業が潰れて店主になれないことには、そこまで衝撃がなかったようです。

むろん、それは無職ということでもあります。

1928年(昭和4年)、見かねた伯父が、川俣銀行への勤務を勧めてきました。

銀行業に何の興味もなく、音楽のことで頭がいっぱいながら、古関は承諾して銀行員になりました。

川俣町は、福島市から東に20キロほどの川俣町にあります。

ここでちょっとトリビア。

福島県では「**町」のことを「**ちょう」ではなく「**まち」と読みます。「かわまたちょう」でなく、「かわまたまち」になります。

勤務態度は、本人の回想をみると、とんでもないものがあります。

銀行業務よりも、工場から聞こえてくる音がいいと思っていたり。帳簿を描く合間に、好きな詩を元に作曲をしたり。『万葉集』のことを考えていたり。

1929年(昭和4年)、イギリスのチェスター楽譜出版社作曲コンテストに応募し、『竹取物語』が二等賞を受賞、賞金4千円を獲得しました。

プロの作曲家をさしおいて、川俣町の銀行員がこの成果ですから、只者ではありません。

せっかくだからイギリスに音楽留学してみっぺ!

古関はそう考えたようですが、金銭的な都合で断念しています。

しかし、この衝撃は終わりません。

古関の受賞は大快挙として、新聞記事になったのです。

 

かぐや姫と結婚する公達

1930年(昭和5年)1月、この新聞記事を熱心に読む女性・内山金子が、福島県からはなんとも遠い愛知県豊橋市にいました。

声楽を愛する彼女は、遠い福島県にいる、若き作曲家に憧れを抱きます。

そして、それから半年も経たない6月、古関裕而と内山金子は結婚。

早っ! どういうこと?

思わずそう突っ込みたくなりますが、当時から周囲も呆気にとられるほどでした。

本人も結婚前後を通して、その辺の事情をあまり語っていないので、謎は多いのですが。ヒントはあります。

古関の妻・金子は、彼の2歳年下で、愛知県豊橋市生まれました。

当時の豊橋市は第十五師団の軍都であり、内山家も陸軍あって暮らしていけるようなもの。

男子1人に女子6人、そんな妻子を残して父は亡くなってしまいます。

音楽を愛する家の三女であった金子は、いささか未来の夫に似たところがあります。

馬の食糧を売る母の稼業を手伝うことよりも、読書と音楽が好き。音楽関係の道を夢見ながら、名古屋の雑誌社の手伝いをしていました。

そんなある日、古関の『竹取物語』の新聞記事を見て大興奮するのでした。

小学校五年のときに『竹取物語』の主役を演じて、あだ名が「かぐや姫」になったことがあったのです。

大好きな音楽で、あの物語を再現するなんて!

なんとしても楽譜が欲しい!

そう思った金子は、ファンレターを送りました。古関は、多数あるファンレターの中で、金子の手紙が印象に残りました。

音楽への愛を察知したのか。

イギリスに楽譜を送ったものの、控えを送ると丁寧に返信したのです。

自分と似た情熱を、互いに手紙から感じ取っていたのでした。

金子は冒険心がありました。

情熱もあって、音楽に関わる人生に憧れていました。

金子が作った『君はるか』という詩に、古関が曲をつける。運命と言いますか、なかなかすごいものを感じます。

声楽を愛した金子は、日本人にはかなり珍しいソプラノドラマティコの持ち主でした。

このかぐや姫は、誠意と音楽を贈った公達と結ばれるのです。

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