古関裕而

古関裕而(撮影1955年)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

古関裕而~朝ドラ『エール』主人公モデル~激動の作曲家人生80年を振り返る

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兵士として従軍する作曲家

1945年(昭和20年)3月、硫黄島陥落の報告を耳にして、古関は苦しみました。

栗林忠道とは面識があったのです。

 

その数日後、赤紙こと召集令状が古関の元にも届きます。

「横須賀海兵団に入団せよ」

古関は丙種でした。

丙種は、甲乙丙のうちでも最低ランクであり、まず召集はされません。

兵士といえば、20前後が主力。36歳ともなれば老兵であり、新兵で召集することそのものが異常事態です。

この年には『特幹練の歌』も依頼されているわけでして、異常そのものなのです。

古関は驚き、海軍人事局に向かいました。

「福島連隊区司令部が、本名の古関勇治に気づかなかったのでしょう。一度出した召集令は取り消せませんが、『特幹練の歌』にも取り組んでおられますし、体験として少し入団なされてはいかがですか。召集解除しておきましょう」

そう言われましたが、この時期の日本がいかに無茶苦茶であるのかわかる逸話でもあります。

・依頼した作曲家の本名すらろくに共有できていない

・海軍本部と福島連隊の連携不足

・召集が完全に破綻していて、年齢も体力も不足した人が兵隊にとられた

古関は逃れたものの、そうできなかった人がどれだけいたことか……。

この数日後、東京は大空襲に遭遇します。

幼い娘を見送り、金子は消火活動に大奮闘。古関家は焼けずに済みました。

それから数日後の3月15日、ヘルニアを抱えながら古関は海軍兵団に入団します。

あの大空襲のあとだと思うと、おそろしいものがあります。皮肉にも、近所の人々が口にしていたのは『露営の歌』でした。

身体検査でヘルニアだと告げても、手術をするから心配ないと帰されるわけでもない。配属されたのは、芸術家や学者ばかりの第百分隊です。

日本の芸術的な才能と頭脳がやらされたのは、デッキ磨き、ハンモックで眠る訓練や名簿整理でした。

名簿を書きつけながら、古関は暗い気持ちにならざるを得ません。

この名簿にある名前も、自分のように令状を受け取り愕然とするんだべな……そう思ってしまう。

ヘルニア手術を受けられたものの、生卵二個と引き換えに他の患者のために献血するという、混沌の中で生きるしかない古関。

空襲もあり、もう死ぬしかないのか――そう悩んでいるところ、一ヶ月ほどでやっと解除されて帰宅したのでした。

しかし、帰宅しても娘と抱き合おうとはしません。

シラミがうつると遠ざけたのでした。

海軍からは『特幹練の歌』中止との命令が届きます。もう、歌どころではない状況だったのです。

 

古関家の戦争体験

日本中が、限界に達しつつありました。

古関家にも戦争は迫ります。

5月 大空襲を受けて二児を福島に疎開させる(関連記事

6月 沖縄陥落

7月 福島市も危険な状況に。二児を飯坂へ疎開させるため、妻を福島へと送るものの、腸チフスにかかる

海軍とのつながりが幸いし、古関は切符を入手できました。

福島に向かうと、金子の顔には死相が出ているほど。海兵団で腸チフスの予防接種を受けていた古関は、金子の看病に励みます。

福島での病院生活も幸いしました。旧友や知人が、貴重な生卵といった食料を分けてくれたのです。

そんな中、友人であり福島での生活を支えてくれた新聞記者の西山安吉にまで、令状が届きました。

150センチ程度であり、脊椎カリエスである西山。こんな兵士まで召集するとはもうこの国は終わりだ。古関はそう瞑目するほかありません。

8月になると、ますます福島の空襲も悪化していきます。

もう終わりかもしれない――そう覚悟しながら、日々を送る古関。そんな折、東京での出演依頼があり、戻ることとなりました。

福島駅で、見送りの新聞記者から、こうひそかに耳打ちされます。

「どうも戦争は終わるようです。日本は負けたようですね」

それから数日後。

8月15日、天皇陛下の放送があると古関は聞きました。

本土決戦だろうかと聞いていると、雑音混じりの放送を聞いた人々が嗚咽するのでした。

これで、降伏だ――。

降伏ならば仕事もないだろう。そう判断して、内幸町放送局の騒ぎを確認してから、古関は家に戻るのでした。ちなみにこの騒ぎとは、玉音盤をめぐる騒動です。

金子は降伏を聞き、ベッドから這い出して、日本の戦闘機を見て涙したそうです。

しかし、夫は現実的でした。

彼の回想によれば福島市のカトリック教会には、米軍が物資をわざわざ落としていったとのこと。

金子は回復していきます。

声楽を愛した金子は、戦時中でも空襲の合間に歌っていたほど。腸チフスから回復した金子は、透き通った歌声を取り戻したのです。

古関一家が疎開していた福島の温泉街・飯坂町にも回覧板が回ってきました。

縞模様のモンペはパジャマと間違えられるという警告を、軽井沢で外国人と接していた金子は笑い飛ばし、平然と履いていたそうです。

疎開先での古関の二児は、恵まれていました。

当時から福島は果樹王国であり、桃、リンゴ、ブドウ……気軽に売ってもらえるのですから。飯坂はドジョウや魚も取れました。

しかし、そんな幸運な人ばかりでもありません。

同郷の友人であり、彼の作曲した歌を世に出してきた伊藤久男は『紺碧の空』以来のつきあいでした。疎開先でも一緒であったものの、どうにもおかしいのです。

戦時中、軍歌を世に出してきたストレスによって、アルコール中毒に陥っていたのです。ついにはメチルアルコールにまで手を出し、顔面が変形してしまうのでした。

メチルアルコールによる悲惨な中毒は、当時あったものです。

命さえ落としかねないものでも、飲まねば生きていけないほど、辛い世の中でした。

この飯坂温泉には、米軍のジープが乗り付けておりました。一仕事終えた米兵たちは、温泉で疲れを癒していたのです。

このとき、古関はおそろしい経験をしています。

ジープに乗った米兵が通訳を連れてやってきて、『比島決戦の歌』のメロディを口ずさみ、歌うように促してきたのです。

震えながら、なんとか歌う古関。彼らは上機嫌で握手を求めてきます。

茫然自失としていた古関は、ジープの音が遠ざかったあとで気がつきます。

「褒めたと思ったんだべな……」

ニミッツとマッカーサーを地獄に落とすどころか、讃えた歌の作曲者だと誤解していたのです。古関は、生涯この歌の放送だけは断固拒否し続けました。

慰問団。アメーバ赤痢。インパール。デング熱。東京はじめとする空襲。海兵団。ヘルニア。腸チフス。

幾度も死線をくぐりながらも、古関一家は戦争を生き延びました。

 

戦後『鐘のなる丘』へ

戦争で日本が大旋回していくのですが、古関という人間には自分の生き方があります。

昭和21年(1946年)、長男・正裕誕生。

金子は腸チフスから回復し、夫の音楽活動とともに歩んでゆきます。

そんな古関の記憶にある生活は、あまりに生々しい敗戦の情景です。

・職場のラジオ局入り口には、米兵が立っている。トイレも米兵と日本人では別の階で分けられている。

・闇市で買ってきた食料を仕事場で調理し、空腹をしのぐ。米兵はこの悪臭が嫌い。くさやを焼きすぎた結果、焼き魚禁止令が出されてしまう

・仕事の合間に買う土産は、米兵由来のキャンディやチョコレート

・休息のために向かった温泉旅館でも、米兵がくつろいでいる。米兵の入浴時間を避けて、朝の四時に入るしかない

・英語を喋る人物がいるから、日系人米兵かと思ったら英語が得意な日本人だった

・闇市を歩くと、義手や義足の傷痍軍人がアコーディオンで悲しげな音楽を奏で、小銭を求めている

なんとも生活実感がこもった敗戦の記録です。

そんな敗戦のあと、人々は明るい希望を求めます。

娯楽であるラジオドラマでした。

古関のメロディは、兵士の背を押すものから、人々を笑顔に変えるものとなったのでした。彼のディスコグラフィーからも、平和の息吹がただよってきます。

タイトルからして、変わりました。

『白鳥の歌』

『夢淡き東京』

『雨のオランダ坂』

『フランチェスカの鐘』

『長崎の鐘』

 

『長崎の鐘』は、あの戦争で起きた原爆の悲劇を記憶する歌として、発表されています。

時代も彼も、変わったのです。

彼のメロディを聞き、涙を流したという手紙も届きました。

音色が心を癒す時代の塔らいです。

『イヨマンテの夜』

 

菊田の歌詞には、「メノコ」、「イヨマンテ」といったアイヌ語の単語が入っています。

同郷の友人である伊藤久男が、歌い上げました。

この曲は、タイトルからおわかりの通り、アイヌの世界を取り入れたものです。戦争を経て、それまで皇民として日本人になることを強要された彼らにも、新たな息吹が芽生えていました。

もっとも和人の古関がテーマの一つとして選んでいるからと、解放されるわけでもありません。それまでには、もっと長い時間が必要です。

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戦前から、菊田一夫と古関はよく仕事をともにして来ました。

昭和12年以来、菊田の死の48年まで36年間、彼らはともに仕事をしたのです。

戦後もそうで『山から来た男』主題歌を手がけています。作詞と作曲のゴールデンコンビでした。

そんな二人は、ラジオドラマ『鐘のなる丘』の主題歌『とんがり帽子』を手がけることになります。

孤児であった記憶のある菊田の詩に、古関は感動を覚えつつ、メロディをつけていきました。

この孤児をテーマとしたドラマも、世相に関係があるのです。

戦災孤児が、当時の日本にあふれていました。

アニメ『火垂るの墓』、2019年上半期朝ドラ『なつぞら』の主人公たちと同じ境遇なのです。

浮浪児救済キャンペーンの一環として、『鐘の鳴る丘』は企画されたのでした。

 

脚本家として指名された菊田は、15分という放送枠を渋ったものの、断れません。この企画は、アメリカのソープ・オペラのような番組として始められたものでした。

かつて古関を南方慰問団に送り込み、命の危険すら味合わせた放送協会。

その戦後の姿であるNHKが、始まろうとしています。

15分間のドラマは、テレビとなると朝の連続テレビ小説になるわけであり、古関がその枠主役に起用されるということは、実に象徴的なことなのです。

その悩みは当初からあったようでして。菊田のプライベートトラブルのせいで、遅れる脚本に古関は悩まされたとか。

その後も、菊田と古関のラジオドラマは続きます。

『西遊記』

『さくらんぼ大将』

『西遊記』には、慰問団で一緒だった徳川夢声も参加しています。

 

『栄冠は君に輝く』そして『君の名は』ブーム

戦争の終結とは、スポーツの復活でもありました。

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そして野球が、やっと息を吹き返します。

1947年(昭和23年)、甲子園のための歌は、古関のメロディに託されました。それこそが、第30回大会から採用された『栄冠は君に輝く』です。

歌うのは、あの伊藤久男でした。

 

時代の転変といえば、創作オペラも欠かせません。

『朱金昭(チョウキンチョウ)』

『トゥランドット』

『チガニの星』

こうしたオペラでは、妻・金子とともに山口淑子が共演をつとめたのです。

あの戦争までは、李香蘭という姑娘(クーニャン・中国人女性)として、プロパガンダ映画のスターであったあの女優です。

逮捕され、奸漢(祖国を裏切った中国人スパイ・売国奴)として裁きを待つ身であった彼女は、間一髪の差で日本人であると証明され釈放されました。

一方、彼女と懇意であった川島芳子(清朝皇族、愛新覺羅顯㺭)は処刑されています。このことは、彼女の胸に深いサバイバーズギルトを刻んでいたのです。

古関のメロディは止まりません。

『長崎の雨』

『恋を呼ぶ歌』

『憧れの郵便馬車』

『ニコライの鐘』

『鐘づくし』

そして、あの伝説のラジオドラマにも菊田とともに関わります。

『君の名は』です。

 

放送時間は銭湯から人が消えた――そんな伝説の作品。春樹と真知子のすれ違いに日本中が熱狂しました。

北海道編からは、

忘却とは、忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ――

という朗読が入り、これまた人々の胸に焼きつきます。

この『君の名は』には、戦後エンタメの要素がみっちりとつまっています。

 

・メディアミックス戦略

→映画、ドラマ化……その反響は続いていきました。

・ファッションとコスプレ

→映像化された際には、ヒロイン・真知子を真似た【真知子巻き】が大流行しました。

◆ファッション?それともコスプレ?「真知子巻き」(→link

・聖地巡礼

→これは近年のことではありません。舞台地にはファンが殺到し、真知子が触れた岩は名前がつけられしめ縄が貼られたほど。

近くの土産屋では、【真知子漬け】が販売されました。摩周湖と美幌峠には記念碑まで。舞台地を通るバスツアーではバスガイドがプロットの説明をしたそうです。

春樹や真知子と、我が子に名付ける親も多かったとか。

映画『ひめゆりの塔』主題歌も、古関は手がけました。

第4回NHK放送文化賞受賞者に、古関裕而が含まれたことは当然といえました。NHK創世記のメロディを奏でた人物とは、まさしく彼なのですから。

明るい世相と、暗いあの戦争。

そのどちらもメロディで描いたのです。

原爆投下以来、日本人に刻まれた恐怖は、怪獣映画になりました。

『モスラの歌』を手がけたのも、古関です。

 

国民音楽作家として

その後の古関は、並ぶ者なき大御所として、さまざまな仕事を手がけます。

東宝ミュージカル。

1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは『オリンピック・マーチ』。

1972年(昭和47年)の札幌オリンピックでは『純白の大地』。

唯一無二、国民音楽作家として名を残してゆく古関裕而。1989年(平成元年)8月18日、80歳で世を去るまで、その名声は確かなものでした。

没後、国民栄誉賞を打診されるものの、遺族は辞退しています。

晩年の古関は、こうつぶやいたことがあります。

「予科練の歌を歌って、特攻隊員として亡くなった方を思うと、胸が痛む……」

いくらメロディが美しかろうが、素晴しかろうが。

そのことは彼の胸から消えない痛みだったのでしょう。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
古関裕而『古関裕而自伝 鐘よ鳴り響け』(→amazon
齋藤秀隆『古関裕而物語』(→amazon
菊池清麿『評伝古関裕而』(→amazon
馬場マコト『従軍歌謡慰問団』(→amazon
『国史大辞典』

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