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【古関裕而】
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古関裕而になる
古関は、そんな新妻・金子だけを愛したわけではありません。
相変わらず音楽に熱中しておりました。
古関には熱愛する文通相手が妻以外にもいました。浮気をしていたという意味ではありません。
その相手は、なんと山田耕筰です。
音符を暗記してファンになった古関は、楽譜を添えたファンレターを送ったところ、山田から返信がありました。
このとき彼は古関裕而というペンネームを考えました。
学生時代は【楽治雄(らじお)】というなんともいえないものがありましたが、さすがに使い続けるわけにもいきません。
【勇治】は勇ましいようで、自分に合わない。昭和天皇の諱と一致するため、むしろ避けられていた【裕】の字をあえて使うことにしました。
劇中の名前からも、その字は取り除かれておりませんね。
これはかなりぶっとんだ思考回路です。
当時は、皇族と重なるだけで名付けを躊躇することこそが、当たり前でしたから。
・仕事中に作曲を続行
・大物作曲家にファンレターを送りつける
・そしてこのペンネーム
ぶっとんだ未来の作曲家が、福島にいたのでした。
ちなみに結婚のひと月前、5月には川俣銀行を退職しています。果たしてその理由とは……?
山田耕筰に認められ……上京だべ!
当時の古関が見逃せない技術が、当時広まりつつありました。
ラジオです。
東京でも出回り始めただけで、普及はまだ先。それでもいてもたってもいられず、手製ラジオを作ったのです。
しかし待ちに待った放送初日、何も聞こえて来ませんでした。
それでも彼はめげません。地方にラジオの波が押し寄せ、仙台も開局。ついには福島ハーモニカ・ソサエティーも出演します!
古関にとってワクワクする日々でした。
日本全国で、ご当地メロディーを作りたいと盛り上がり始めます。
福島然り。
かくして『福島行進曲』が生まれます。
この曲に注目が集まり、日本コロムビアから連絡がありました。
山田耕筰が、彼を推薦してくれたのです。
結婚一年目、17歳の新妻・金子に相談して、古関はいざ上京を果たす……とは本人の回想ではありますが、狙い通りである形跡もあります。
時系列的に、自ら梯子を外していると考えられなくもない。
両親や周囲は困惑し、せいぜい演歌師の伴奏か、ご当地ソングでも作るのだろうと見守っていたようです。
もう反対しても無駄であろう――と諦めていたのか。無職よりはマシではあります。
ともあれ、夫妻は上京。金子は東京で帝国音楽学校に入学します。
夫婦の音楽愛が、上京を経て結実するのです。
竹久夢二の世界を歌にして
かくして、上京した古関夫妻は、妻の姉の家に転がり込みます。
当時は不況で、暗い世相でした。マイペースな古関も、音楽のことで出社するとなると、俄然張り切ります。
作曲家である彼は、呼び出された時だけ勤務すればよいものです。
だからといって、気楽ではない。
推薦者の山田耕筰への恩返しと、積まれた契約金と給料。居候先の義兄の給与が120円であるのに対して、古関は300円も貰っていたのでした。
この二つのプレッシャーをひしひしと感じ、ヒットを飛ばすと意気込む古関。
第一作は『福島行進曲』で、このB面に頭を悩ませます。
答えは彼の中にありました。
「『福島夜曲』だべな!」
これもドラマの上で重要な話になるでしょう。
1929年(昭和4年)、福島で開催された竹久夢二展で、古関はある作品に夢中になりました。
『福島夜曲』――即興で描かれた絵に、民謡調の歌が添えてあったのです。
その歌をノートに書きつけ、古関は帰宅後、部屋にこもります。心が奏でるメロディを、楽譜に写したのでした。
できあがった楽譜を持って、古関は竹久の宿泊先・福島ホテルに向かいます。
紺絣を着た20歳の青年がやってきて、竹久は驚きながらも喜びました。
楽譜を差し上げて、歌い上げると、感動したのか、竹久が吾妻山のスケッチまで渡してきたのです。
偉大な画家だべ。
きっと、威張ってっぺな……そう思っていたのに、気さくな方だった――その思い出が、古関の胸に刻まれていました。
そしてあの『福島夜曲』から選んで、収録することにしたのです。
古関裕而と竹久夢二の交流は続きます。
竹久が個展で出会った古関夫妻に、扇子と歌を贈ったり。古関がなんとしてもと張り切って、竹久の絵を買い求めたり。
絵と音楽、芸術の幸運な出会いがそこにはありました。
1934年(昭和9年)、療養所から古関へと手紙を送り、竹久夢二は世を去ります。
それでも、思い出は残されたのです。
『紺碧の空』 早稲田にエールを送れ
残念ながら、最初のレコードは思っていたほど売れませんでした。
彼の歴史的なヒット曲は、1931年(昭和6年)の早稲田大学応援歌『紺碧の空』。
当時は、早慶戦がともかく大人気。エンタツアチャコの『早慶戦』も、これをテーマとしております。
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これも人の縁がきっかけで、レコード会社が頼んできたわけでもないものでした。
上京後の金子は、帝国音楽学校に入学しています。
そこで福島出身の伊藤久男と知り合うのですが、彼のイトコ・伊藤茂が早稲田応援部の幹部でした。
早稲田応援部の悩みは、ライバル慶応ほどいい応援歌がないこと。とりあえず作詞はできたものの、悩ましいのが作曲です。
「覇者、覇者、早稲田!」
この部分をどうするのか。
大物作曲家に謝礼を積まねばできないであろう――そう悩んでいるうちに、古関に話が来たのです。
しかし話を受けた古関も、簡単にはできませんでした。
血の気の多い応援部員にお茶と茶菓子を出し、接待を務める金子。彼女は、応援部員がどすどすと室内を歩き回るため、気が気でなかったそうです。
応援歌の経験がない中、古関は悩みつつも、発表会3日前に完成させます。
聞かされた団員はちょっと難しいかもしれないと困惑するものの、古関は自信を持って押し切りました。
新応援歌をひっさげた早稲田は、因縁の対決に勝利。
これぞ新時代だ!と喜ばれたこの曲は、記念すべきものとして歴史に刻まれるのでした。
ちなみに現在も、早慶戦や早明戦などの試合で得点が入ったときには『紺碧の空』が流され、早大生たちが肩を組んで盛り上がります。
このあと、翌1932年(昭和7年)には、長女・雅子が生まれています。
1934年(昭和9年)には次女・紀子が生まれました。
古関は人間的に難しい性格もうかがわせるのですが、それでも周囲は彼を理解したようです。
時に個性がきつすぎる彼を、師匠の山田耕筰は見守り、励まし続けていたのでした。当時大いにもりあがった『日米野球行進曲』も手がけて、古関はますます好調ではあります。
そんな彼も、世相にあわせた作曲を考えなければなりません。
当時の流行りは、どうにもはっきりしない、エロ・グロ・ナンセンスの流行。暗い世相を励ますような、そういう音楽も求められる。
雅子が生まれた年には『爆弾三勇士の歌』がヒットしています。
あえて古関【裕】而をペンネームにする彼にとって、合うわけもない世相なのです。
暗い世相を明るい歌で励ましたいのか。
コロンビアで、ライバル作曲家が増えたこともあり、古関の評価は低くなる一方でした。
他の作曲家ほど、流行に乗った作曲ができない。独自の信念で、音楽理念を貫こうとします。
しかし、契約解除を持ち出され、やっと世俗的な歌への迎合が必要なのだと気がつきます。
1933年(昭和8年)から、古関はスランプに入ります。
一方で、世相はレコード戦国時代に突入。コロムビア、ビクター、テイチク……争うように発売される中、1935年(昭和10年)『船頭可愛や』は初のヒットシングルとなります。
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