古関裕而

古関裕而(撮影1955年)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

古関裕而~朝ドラ『エール』主人公モデル~激動の作曲家人生80年を振り返る

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『露営の歌』そして従軍音楽部隊

1937年(昭和12年)、古関は妻・金子と共に満州へ渡り、『露営の歌』を作曲しました。

金子のきょうだいが、満州にいたのです。

盧溝橋事件の後ではありましたが、それでも準備をしているからと、妻と共にわたったのです。

ロシア民謡を好んだ古関は、ロシア人バンドの演奏を楽しみます。

この旅で書き留めたメロディが『露営の歌』であり、『進軍の歌』のB面として収録、発売されました。

 

この歌が日本中で流れるようになると、故郷の両親も誇りに思うようになりました。

京都・嵐山には、陸軍大将・松井石根いわねが筆を執った歌碑すら作られたほど。

銃を持って行進する兵士の背を押す音楽を、古関は手がけたのです。この『露営の歌』こそが、まぎれもない彼の栄転ではあるのです。

1938年(昭和13年)、虚弱な二児の療養も兼ねて軽井沢に滞在している古関のもとに、コロンビアから従軍を要請する電話がありました。

世相とエンタメは、切っても切り離せないもの。

落語でも。

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宝塚歌劇団でも。

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吉本興業でも。

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軍部の要請である慰問をこなさなければ、事業を続けることはできません。

それは古関の愛する歌と音楽の世界でも、同じこと。

では彼は嫌がったのか?

それはどうでしょうか。当時はお国のため、名誉なこととされていたのですから。

1938年(昭和13年)、秋――。従軍音楽部隊として、西條八十と共に古関は中国へ向かいました。

この慰問団で、兵士の歓声を聞いた古関はハンカチで目をぬぐっている。そういう時間がありました。自分の歌に感動する兵士たち。その歓声に、彼は泣いたのです。

古関は、中国大陸を穏やかに回ろうとするものの、そう簡単にはいきません。

それが戦争なのです。

揚子江では砲撃を受けました。廬山では、4万の敵襲が迫っている情報もあり、身の危険も感じました。

そのことは、帰国後も続きます。

この年、古関の父が亡くなります。世の暗い転変が、彼の身にも迫っていました。

彼のバイオグラフィーも、世相を反映していきます。

『暁に祈る』

『海の進軍』

『英国東洋艦隊壊滅』

1941年(昭和16年)12月8日――。

真珠湾攻撃が起こったとき、国民は驚喜しました。

しかし、何をどうすれば勝利するのかすらわからなかった、と古関は振り返っています。

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従軍歌謡慰問団

 

1942年(昭和17年)、国民生活が窮乏する中のある日。ラジオ番組で『暁に祈る』の指揮を終えた古関に、ある電話があったと告げられます。

行き先はジャワ。

暗い日本から見れば、明るい南の島と思えなくもない、そんな場所です。

中国旅行では砲撃とアメーバ赤痢に苦しんだ古関ですが、そもそも断ることもできません。

放送協会南方慰問団――NHK前身の放送局が、NHK看板の朝ドラ主人公モデルをどんな目にあわせたのか。

画期的なことであると把握した上で、読み進めることをお勧めします。

徳川夢声を団長とした36名は、南方へ向かう船に乗り込みます。徳川は、2019年朝ドラ『なつぞら』豊富遊声のモデルです。

乗り込んだ船は、老朽船であり、しかも特別三等室。徳川が屈辱と怒りに身を震わせる中、一行は進みます。

敵襲には遭わず、船はなんとか陥落一年後のシンガポールに到着します。

しかしそこは、沈みかけた船が係留されているなど、どこか荒んだ空気が漂っておりました。

宿泊先も名前倒れのボロ宿で、お粗末なもの。しかし、南海の雄大な自然は、古関の心を大いに刺激しました。

『大南方軍の歌』を作曲、発表すると、なぜだか女性団員・奥山彩子が悔し泣きをします。

原因は、ある士官の言葉でした。

「藤原千多歌はかわいい顔だが、子供っぽい。豊島珠江、なかなかおもしろそうだな。夜、俺の部屋によこしてくれ」

石井みどりが失礼だと断ったものの、奥山は苦しくて苦しくて……泣くしかないのです。

そこへ、参謀謀長副官から電話が入ります。

「慰問団の若い女だけをよこせ。男はいらん」

徳川団長は激怒したものの、断れるわけもありません。女性慰問団員は、蒼ざめた顔をしながら着替えて出かけていくのです。

「皇軍に協力せんとする純情なる乙女を求む」

「大和撫子よ、常夏の国に咲け」

そんな美辞麗句で集められておきながら、歌で慰問すると集められておきながら、その現実は残酷なものでした。

女性団員たちは自殺を考えたこともあったほど。

古関は暗い気持ちになりました。

彼女らすら、こんな扱いだ。

軍と組んだ女衒に連れていかれた女性たちは、どうなってしまったのか……。

46歳である徳川のストレスは、もっとひどいものでした。酒を飲みつづけ、胃を壊し、ついには倒れてしまったのです。

徳川をクアラルンプールの病院に残し、慰問団は移動を続けるしかありません。

一行は、ラングーンに到着したのでした。

当時「地獄のビルマ」という言葉がありました。

しかし都市部は穏やかで、古関はその理由を不思議に思っていたのですが……その身でもって痛感することとなります。

ビルマを進んでいくと、天候が一変します。半袖の夏服であったはずなのに、コートなしでは進めないほど、寒冷なのです。

高低差のせいでした。

イギリス軍捕虜のコートで寒さをしのいだ古関ですが、兵士にはそれができたのかどうか……。

一応は好待遇であったはずの慰問団ですが、中国への道中であまりにひどい事件が続発します。

盲腸になった女性団員が、医薬品不足の中で粗末な手術を受ける。

山道を走っていたシボレーが、無謀な運転と山道軽視のために崖下に転落し、運転していた士官は即死。慰問団員も重傷を負う。

無謀な旅で死んでゆく士官のために『露営の歌』を口ずさむしかできない――そんな古関でした。

前線で慰問するとなると、兵士は大喜びです。

そんな彼らを前にして、命が危険だと思いながら、古関は指揮棒を振るしかない。女性団員は歌うしかない。それしかできないとはいえ、そのことがどれほど辛いことであったか。

各地をめぐり、ペナン空港で門松を見た古関は、激動の一年が終わったのかと呆然とします。

そしてクアラルンプールで、徳川夢声の見舞いをするのでした。

そこで彼は、驚くべきことをいいます。

「この戦争は、負けるかもしれんよ……」

古関がその理由を聞くと、”Gone With The Wind”(『風と共に去りぬ』)という映画の話をします。

得意の美声で、その主題歌を歌い出すのです。

 

「こんな映画を作る国に、戦争で勝てるわけがない……」

彼の留守中、浜崎中尉の案内で徳川は街を見て回っていました。

浜崎は華僑の街につくと、どこか落ち着きがないのです。

あの子が来ないか。

怯えているのです。

それは浜崎が殺した人物の子のこと。その子は父の死を知らず、毎日そのために牛乳を届けてくるのです。

「きみ、日本軍はシンガポールで大変なことをしたらしいよ……」

徳川はそう暗い顔でささやくのでした。

徳川と別れ、船に揺られ、古関は日本に着きました。

慰問団の半袖の服の上に、イギリス軍のコートを羽織る、奇妙な姿です。

DDTを頭からかけられて、古関の慰問団の旅は終わったのでした。

 


インパール従軍作曲家

 

1943年(昭和18年)――古関の作るメロディは若い兵士の励ましとなりました。

作曲家にとっては、自分の音楽を聞いた兵士が敵に突っ込み、お国のために命を散らすことこそが最大の名誉という時代でした。

古関は次々に軍歌を作曲します。

『若鷲の歌』

『海を征く歌』

『ラバウル海軍航空隊』

この年、陥落した【ガダルカナル島の戦い】では、古関の同郷である福島県の兵士が命を落としていました。

古関のいとこもその一人。

戦死というよりも餓死だと、古関は後に振り返っています。

1944年(昭和19年)――。開けてすぐに、大本営は【インパール作戦】を発表しました。

2017年朝ドラ『ひよっこ』ヒロインの叔父・宗男は、この作戦に従軍しています。

文学者、画家、そして音楽家が慰問団として同行する手はずが整えられていきました。幼い二児の父であり、福島では病の母を抱えた古関にも、その依頼が届きます。

「インパール陥落を見て、国民が奮い立つ歌を作っていただきたい」

古関には、内心、嫌な予感がありました。

断ろうにも、それはできません。

「貴下が万一亡くなられたら靖国に祀ります。ご母堂もそこまで重態ではないでしょう」

ほぼ脅迫され、やむなく台湾へ……。

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洋上ではなく、飛行機で向かう最中、荒々しい操縦技能を見せられた古関は、どうにも複雑な気持ちであったようです。

台湾、サイゴン、アンコール・ワット上空を超えてビルマへ。

ラングーンにたどり着くと、こう言われました。

「インパール陥落はまだであります。ラングーンでお待ちください」

このころは、ブーゲンビリアの花や、小説家・火野葦平ひのあしへいの酔態、現地料理、現地の歌や踊り採録を楽しむ余裕はあったようです。

古関は作曲に励みます。

が、どうにも不穏。「すぐに陥落する」と説明されたインパールは全く落ちる気配がない。

それなのに作戦を説明する将校は、自信満々です。

部屋は真っ黒いカビだらけ。サソリが出る。蛇も出る。雨季のため、洪水になりそうな大雨が毎日のように降る。

街中ではペストが大流行中で、前線から戻ってくる従軍記者の様子もおかしい……。

そんな中、火野葦平の『ビルマ派遣軍の歌』に、古関は曲をつけました。

部隊歌も作ったものの、戦後まで残ることもありませんでした。

紛失したと本人は語っておりますが、見たくもなかった可能性も考えられなくもありません。

そんな中、古関自身も、デング熱に倒れてしまい、高熱で10日ほど死線をさまよいます。

古関も地獄の思いですが、「インパール作戦」はそれどころではありません。従軍した火野は、目をぎらつかせながら、朝日新聞支社で目撃したことを語ります。

「この作戦は全てがでたらめだ! 初めから勝ち目のない作戦を仕掛け、敗れた……全ては無謀、無意味だった……」

作戦について将校は、地図だけを見て意気揚々と語っていました。

大雨、疫病、泥――机上の空論をふりかざし、現実を見ようとしなかった。

そう火野は語ったのです。

火野はのちに、インパールの地獄を『青春と泥濘』(→amazon)に残しています。

画家として従軍していた向井潤吉も、地獄の絵を残しています。彼らと古関を含めた三人は、地獄の目撃者として名を刻むこととなるのです。

※映画『野火』は戦地こそ違えど、戦場の地獄が表現されています

三人は、証言も聞きつづけました。

火野は戦後に戦犯とされますが、そのことに古関は「あれは犠牲者だ」と理解を寄せています。

8月、彼ら三人は帰国のため、ラングーンからシンガポールへ向かいます。

そこで古関を待っていたのは……母の訃報を知らせる電報でした。目がくらむほどの衝撃が襲ってきました。

さほど重態ではないとなだめすかされ、インパールまで連れていかれ、その間に母は亡くなってしまう。

訃報を受け取った夜、古関は一睡もできなかったのです。

サイゴンに着くと、古関は母の葬儀のために帰国したいと告げます。

「軍の特務計画に変更はありません」

すげなく断られる古関。

諦めきれず参謀本部へ向かいます。

そこで母の死を同情されながらも、さらなる任務を知らされます。『仏印派遣軍行進曲』の作曲と、在留フランス人向け親善演奏会の開催です。

仕事のために与えられたホテルはシャンデリアが輝き、目の前にはサイゴン川がある。

天国と地獄が交錯する、残酷な歴史がそこにありました。

参謀本部から羊羹やチョコレートといった菓子、楽器や楽譜等を土産にもらい、古関は帰国します。

持ち帰った菓子も、内地(日本本土)では贅沢なものとなっていました。

母の死から一ヶ月遅れて、古関は葬儀を執り行ったのでした。

 

それでも歌わねばならない時代

『海軍特別攻撃隊の歌』を発表したその年の10月、米軍はレイテ島に上陸。フィリピン沖海戦が勃発します。

この頃になると、軍歌作曲もますます厳しく、無茶苦茶な状況となります。

歌詞に軍の将校が、いろいろと注文をつけるのです。

「マッカーサーとニミッツの名を入れてくれ」

レイテは地獄の三丁目→いざ来い、ニミッツ、マッカーサー

『比島決戦の歌』です。

作詞した西條八十にとっても、不愉快極まりない話です。

震えながら、そんな人名を入れたくないと抵抗していたそうです。

 

のちに西條は、この歌詞のせいで絞首刑になると嘆いたものでした。

これを知り、読売新聞記者にして音楽評論家であった吉本明光が、手紙をよこしました。無理に書き換えられたと、証言するという申し出でした。

幸いにも、西條は無事だったとのこと。この歌は、発表会すらできずラジオ放送でお茶を濁すしかありません。

日本中の子供たちが、ニミッツとマッカーサーの名を口にしながら走り回る。

そんな日々がありましたが、それも長くは続きません。

この歌は、マニラ陥落が見えてくると、放送すらされなくなりました。幻の歌は結局レコードにすらならなかったのです。

軍部がレコードを手放した時。

もはや破滅は目前でした。

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