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【山田耕筰】
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奇人変人揃いの音楽学校で青春を謳歌
音楽学校に通う同級生たちは、奇人変人揃いでした。
それが妙に馬が合う。
引っ込み思案で、一人遊びや義兄との交流ぐらいしか思い出のない山田ですが、音楽学校で知り合った学友とはのびのびとした日々を過ごすことができました。
当時はバンカラが流行し、スポーツでは「天狗倶楽部」が盛り上がった時代。音楽を学ぶ学生たちも、エネルギッシュなものでした。
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チェロ、トランペット、そしてピアノ。
そうした楽器を外国人教師から習う合間に、いたずらをし、可憐なお嬢さんの姿にうっとりする。いや、ダメだ、色に負けてはならないと振り切る。そんな上野の日々でした。
明治41年(1908年)の本科卒業後は、研究科へと進学。音楽指導をしながら自らも学ぶこととなりました。
そして明治43年(1910年)には、東京音楽学校での学習を終えることとなっていたのです。
卒業直前、チェロを教えるハインリヒ・ヴェルクマイスターは山田にこう言いました。
「山田くん、卒業後はドイツへ行くのだ。楽しみだろう?」
「いや、そんな、学費がありません」
「何を言う。学費の心配をするのは私だ」
「冗談はやめてください! ドイツ留学は、ああ、もう、本当に毎晩夢に見ているくらいですけど……」
「からかってなぞいるものか。岩崎小弥太男爵に手紙を出してみたまえ」
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岩崎小弥太とは、三菱財閥のトップ。
あの岩崎弥太郎の甥っ子に当たってみろ、と言うのです(小弥太の父が弥太郎の弟)。
岩崎小弥太「国家のためにも音楽を学んで欲しい」
山田は驚きました。
しかし、冗談で言うようなこととも思えない。
華麗なる岩崎一族という富豪の好意にすがるのもどうなのか? いや、むしろ、芸術のために富豪が金を払うのは進歩かもしれない。
親友とも相談し、ひとしきり悩んだ山田はそう意を決して、男爵の邸宅を訪れると、思いのほか岩崎は好意的に出迎えてくれました。
「国家のためにも音楽を学んで欲しい」と語りかけてきたのです。
ここで山田は誤解があるとはいけないと考え、自分の経歴を語り始めました。
活版工として苦労した幼年期。
両親の不仲、家庭に問題があったこと。
そこまではよいとして、こんなことまで。
「私はこの通り色白で、そのせいで軟派(当時は異性愛者であり、かつ軽薄であるというニュアンス)だと思われていて、幸田先生(女性教師)の燕(若い男の愛人)だという噂まであるんです! それをふまえて留学の許可を得られるのであれば……」
山田耕筰は、晩年の写真が教科書等に使われているため、おじさんのイメージがあります。
しかし、若いころは繊細そうな美青年でした。その美貌ゆえに、いろいろなことを噂され、悩んでいたのです。
そのあとも山田は、苦悩を語ります。
「国家のために音楽と言われましたが、私は、自分のために学ぶしかできません!」
「いや、いいんだよ。重大な責務を負うと思わないでくれ。安心して勉強しなさい」
岩崎は澄んだ目で承諾。かくして留学が決まります。
軍事と密接な政商イメージの強い三菱財閥ですが、小弥太には文化芸術を保護する理解があったのですね。
山田の人生は、明治という時代が色濃く反映されています。
幕末の動乱に苦しんだ母。
維新後に変化を遂げる日本経済で手腕を発揮した父。
キリシタン禁制が解かれ、プロテスタントに救われ、賛美歌を聞いていた一家。
布教のために来日した外国人と結婚した姉。
西洋音楽を教え、彼をかわいがってくれた義兄。
西洋文明を学ぶ若者を見守り、励ました外国人教師。
その留学を援助する富豪。
彼自身は国家を背負うのは大変だと困惑しても、音楽に生きるということは、のぼりゆく日本という国あってのものです。
許嫁の素子を残し、彼は旅立ちました。
やはり不合格だったのか……慰めるように握手をされた
耕筰24歳――。
岩崎男爵邸の階段から一ヶ月後の春、ベルリンの王立高等音楽学校に山田の姿がありました。
日本からはるばる来たとはいえ、まだ入学できるかどうかも不明です。
不安で仕方ない山田は、下宿先の婦人までこんなことを言われました。
「はるばる海外からいらしてあの学校を受験ですって! 合格は難しいんですよ。他の学校を試してから受験なさっては? いきなりだなんて、無茶です」
覚悟の上とはいえ、現地の人にそう言われてはますます自信を失ってしまいます。
それでも学校で作曲部長であったマックス・ブルッフ教授の自宅を訪れました。
教授に、日本で書いてもらった紹介状と作品を渡すと、彼は自身が病気療養中だと断った上で、次席であるヴォルフ教授に宛てる名刺をくれたのでした。
そして試験当日。
受験番号47で、ガチガチに緊張しながらテストを受け、下宿に戻るとあの婦人からは「試験室に入れただけでも名誉なこと」と言われてしまう始末。
誰もが受かるはずがないと言われ、試験発表当日を迎えました。
自分は赤線を引かれているし、髭をはやした紳士が慰めるように握手をしてくれるし、やはり不合格だったか……山田はすっかり落胆してしまいました。
そして三等書記官であった武者小路公共(武者小路実篤の兄)に、その結果を報告します。
「駄目でした。教授らしい紳士が慰めてくれました……」
「その方はファッレンと言っていたのかな?」
「さあ、ノンレンだったと思いますけど」
「それは合格ということだよ!」
なんと、47人中3人という狭き門を山田は通過していたのです!
山田は驚きながら学校へ戻って授業料を支払い、学生証を受け取ると、嬉し涙を滲ませながら東京宛に電報を何本も打ったのでした。
遊び人も多い留学仲間の中で
かくして留学生活が始まりました。
ここでも生真面目な山田らしいものがあります。
留学費用はあるとはいえ、倹約第一、遊ばないよう心がけていたのです。だらけきった留学仲間には怒りすら覚えていました。
若い女性教師の家に下宿するものの、お色気展開をしてきてまじめに勉強できないので、金を置いてさっさと飛び出す。
当時の日本のドイツ留学といえば、あの『舞姫』モデルのようなこともあったとされています。まじめに勉強しない留学生が多い中、山田は違いました。
軟派どころか、硬派です。
英語と違いドイツ語は全くできないため、必死で習うしかありません。
教師はドイツ人姉妹、その家にはフランス人女性も下宿しています。彼女らはドイツ語を覚えていく山田を褒めており、勉強ということで会話もしていたようです。
それでも、彼女らがどんな女性であるかは、最低限のことしかわかりません。このあたりはあくまで本人の回想ですので、後年のこともふまえて受け止めましょう。
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山田が極めて女性について真面目であったのは、彼には貞操を捧げるべき許婚がいたからでした。
関西学院時の同級生・徳久恒利の家を訪れた際、その妹の素子という女性と出会いました。決して美人ではないものの、二人は心が通い合うものを感じるようになったのです。
当時の山田は、もっと目立つ女性たちが写真を持ち歩いているという噂が耳に入るほどで、他にも交際できそうな相手がいました。
それでも、山田は素子が忘れられません。
自身の複雑な家庭環境や将来を目指している夢を打ち明けたうえで、この二人は許婚となっており、心の中には、あの儚げな素子という許婚の姿がいつもありました。
なお、明治とは日本史上でも特異的な価値観があった時代でもあります。上流階級、知識人男性が貞操を守ること、童貞で結婚することを尊んだ時代なのです。
山田も、そんな明治の青年でした。
許嫁から届いた残酷すぎる手紙とは?
そんな山田は、夏季休暇後、愛する素子から一通の手紙を受け取ります。
久しぶりに届くその手紙には、驚愕の事実が書かれていました。
義理の母と長いこと確執があったこと。
その義母に押し切られ、ある医師に嫁ぐよう強制されたこと。四番目の後妻とならねばならない。
この身は嫁いだとしても、心は永久にあなたのもの。哀れと思い、手紙だけでも送って欲しい――。
素子の父は後妻を迎えており、素子の実母ではありませんでした。この義母と対立し、心苦しい思いが常に素子にはありました。
彼女がどれほど苦闘をしたのか、山田には理解できるのです。
山田はベッドに倒れ伏し、一晩中涙にくれました。
呆然として朝を迎えても、苦しみばかりが募ってきます。手紙を書けと言われたところでできない。それどころか、もう、気が抜けてしまい、勉強をする気も起こらない。魂が抜けてしまったかのようでした。
それでも山田には、逃避ができました。
哀切をメロディにして昇華させることが、彼にはできました。
悲嘆の曲調を作り上げると、それが日本人初の西洋音楽の調べとなるのです。
運命が彼をこの悲嘆に突き落としたかのようでもあります。残酷ではありますが、山田自身がそう感じていたことですらありました。
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