窮地に陥ったとき、どこからか救いの手が伸ばされることを、昔の人は「神のご加護」と感じたのでしょう。
本日はそんな感じ……だったかもしれない、戦後混乱期のお話です。
明治三十四年(1901年)9月19日は、事業家かつ慈善家の沢田美喜(みき)が誕生した日です。
字面だけだとちょっとわかりにくいですが、三菱財閥3代目・岩崎久弥の長女として生まれた超絶お嬢様でした。
そんな人が、どのようにして慈善の道を進んでいったのか。
その足跡を追ってみましょう。
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沢田美喜の家庭教師はお札になるあの梅子
美喜は、この時代の女性としてはやや変わった教育を受けています。
当初は東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中・高)に通っていたのですが、15歳のときに中退。
家庭教師の津田梅子らに学んでいたのです。
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梅子は、あの津田塾大学の創設者にして日本初の帰国子女の一人です。
山川捨松(大山捨松)が援助を惜しむことなく力を注いだ津田梅子であり、おそらく美喜は、梅子から欧米の価値観やキリスト教に関する教えも受けたことでしょう。
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その後、21歳のときに外交官の沢田廉三と結婚。
彼がクリスチャンだったため、美喜もキリスト教に改宗しています。
夫の転勤に伴い、アルゼンチンや中国、アメリカ、ヨーロッパ各地を転々とし、行く先々で子供を産めたのは心身ともにタフだったからでしょう。
ロンドン滞在中にはドクター・バーナードス・ホームという孤児院を訪問したり、パリやニューヨークでは、後の活動を支援してくれるような人々と親交を結んだり。
まるで将来の下準備のようなことをしていました。
「縁は異なもの味なもの」とはよくいったもので、この「クリスチャン」である「西洋人の協力を得ることができた」ということが、後日、多くの人を救うことになります。
美喜が乗り合わせた電車で混血児の死亡事件
35歳のとき日本へ帰国。
間もなく敝之館(へいしかん)と瑞穂館という施設の設立に関わったことで、美喜は慈善事業への一歩を踏み出します。
留学生としてやってきた日系2世のための施設で、美喜は入館者の相談役や、野球チームのマネージャーなど、積極的に働いていました。
終戦直後のことであり、岩崎家の屋敷が進駐軍に接収されるなど、窮屈な生活をしていたこともあります。
しかし、進駐軍の日系人一家に子供が産まれ、その世話をすることで気分が紛れていたようです。
そんな折、美喜がたまたま乗った電車で混血児が死亡するという事件がありました。
この辺の事情はまさに戦争の影響といいますか。
生々しいので、気分が悪くなりそうな方は飛ばしてくださいね。
終戦直後、国内の女性を守るため、「特殊慰安所」というものが作られた時期がありました。
進駐軍の夜のお世話をする女性を予め募り、場所も限定することで、病気の蔓延や望まない妊娠を避けようとしたものです。
戦災で身寄りをなくした女性の最後の働き先としても機能していました。
道徳的にもアレだし、気分の良い話ではありませんが、極限状態でもできる側面もありますからね。
しかし、この施設は「そんなものは必要ない」と進駐軍側に言われ、昭和二十一年(1946年)3月という早い時期に閉鎖されてしまっています。
設置中も性犯罪がなくなったわけではなかったでしょうが、閉鎖後は街娼や通りすがりに……という事件が増え、結果として混血児が増えました。
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