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【沢田美喜】
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「異国人の血が混ざる」事自体が受け入れらず!?
必要ないと断じるのであれば……それなりの根拠を出すなり、自分たちで代案を考えるなりしろという気もします。
が、当時の日本がそこまで強気に出られるはずもない。
味方であるはずのフランス奪還時も、連合軍側の兵士によって相当数の性犯罪が起きたそうですから、黄禍論まっしぐら&ついこの前まで殺し合ってた相手に対して、この手の犯罪が起きないわけがないですよね。嫌な話です。
当時は「連合国・進駐軍を批評するもの、不信を煽るものは出版禁止」ということになっていたので、性犯罪もほとんど報道されませんでした。
ただし、抜け穴として「大きな男」という表現を用いて、少しでも事実を伝えようとする記者もいたとかいなかったとか。
当時の日本人男性の平均身長は170cmもなかったので、目に見えて大きな男=西洋人=連合軍という暗喩ができたというわけです。
混血児の中には、自由恋愛で生まれた人もいました。
が、当時の日本では「異国人の血が混ざる」事自体が受け入れられにくいものです。
そもそも日本全体が食うや食わずだった頃ですから、誰か・何かに不満をぶつけないと精神が保てなかったのかもしれません。
エグい話終わり。
グレース・ケリーの協力も得て
そんなわけで、混血児に対する認識が現在と全く違っていた時代です。
「彼らが安心して成長できる場所を作ろう」と考えた美貴は、かつて岩崎家の別邸だった神奈川県の家を買い戻して、「エリザベス・サンダースホーム」という混血児向けの孤児院を作りました。
エリザベス・サンダースとは、最初に寄付をしてくれた聖公会(英国国教会系のキリスト教の宗派)の信者の名だそうです。
この辺から、美喜が「一度強い印象を受けた出来事を忘れない」という性格だったことがうかがえますね。
慈善事業という時点で立派なことですが、当時の情勢では進駐軍からも日本政府からも睨まれ、かなり厳しい経営状態だったといいます。
しかし、1949年と1950年にアメリカで講演会を行い、少しずつ寄付を得られるようになって、経営状態は好転していきました。
ニューヨークでグレース・ケリーと親交を持てたことも幸運でした。
グレースは20世紀における世界的な美女の一人であり、エルメスの「ケリーバッグ」の由来にもなった人ですので、ご存じの方も多いでしょう。
彼女はモナコ公妃になったその後も美喜の活動を支援してくれました。
昭和天皇・皇后も聖ステパノ学園を来訪している
1953年には入所していた子供たちが大きくなったため、小学校と中学校を併設。
学校法人聖ステパノ学園として新たなスタートをきっています。
「ステパノ」は、海軍に入って戦死した美喜の三男の洗礼名からきているそうです。
ステパノ自体はキリスト教における最初の殉教者とされる人物で、英語では「スティーヴン」、ロシア語などのスラブ系言語では「ステファン」、ドイツ語では「シュテファン」となります。
西洋の有名人でもよく見かけますね。
1950年代には世間の目もずいぶん変わってきており、昭和天皇・皇后も聖ステパノ学園を来訪しました。
美喜は卒業後のことも考え、1962年にはブラジルのアマゾン川流域で開拓を進め、農場を開いて卒園生の就職先を確保しています。
すべての卒業生がブラジルへ渡ったわけではないと思われますが、いずれにせよ、美喜に感謝していたでしょう。
実は、美喜本人はこの間、兄や夫など家族に先立たれて辛い思いもしていました。
それでも前を向き続けることができたのは、ひとえに母の強さなのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
沢田美喜/Wikipedia
エリザベス・サンダース・ホーム/Wikipedia
特殊慰安施設協会/Wikipedia
プレスコード/Wikipedia