日本に多大な影響力を有する財閥グループの中でも筆頭候補に挙げられるのが三菱でしょう。
その創始者は、言わずもがな岩崎弥太郎です。
幕末から明治以降にかけて「政商」として台頭するや、わずか一代で日本のトップグループを形成した起業家で、明治18年(1885年)2月7日はその命日。
今なお偉大な商人として知られますが、実は若い頃は何をやっても長続きしないタイプでした。
しかも商人出身ではありません。
では一体何なのか?
なぜ岩崎弥太郎はあれほどまでに成功したのか?
本稿では、大河ドラマ『青天を衝け』でもクローズアップされた、渋沢栄一のライバル・岩崎弥太郎の生涯を追ってみましょう。
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農民と武士の中間・郷士に生まれた岩崎弥太郎
岩崎弥太郎は天保5年(1835年)12月11日、土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれました。
父は岩崎弥次郎という人物で、形式上は農民の身分。
「形式上」というのは土佐ならではの複雑な仕組みが反映されています。
もともと戦国時代の土佐は、四国を統一した長宗我部氏の本拠であり、岩崎氏もルーツをたどれば彼らの家臣であったと自称します(それを裏付ける家譜などは残されていませんが)。
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しかし、関ヶ原の戦いや大坂の陣によって長宗我部家は滅亡。
代わりにやってきたのが山内一豊です。
一豊にしてみれば、長宗我部氏を主と仰ぐ勢力は邪魔でしかなく、かといって彼らを無碍に扱い、刺激しすぎても領国経営に支障が出てしまう。
そこで一豊は、長宗我部に仕えた「一領具足(半分武士・半分農民的な家臣)」を遠ざけつつ、あくまで長宗我部氏の政策を引き継ぐという方針を示します。
結果、岩崎氏は農民的でもあり、武士的でもある特殊な「郷士」として江戸時代を過ごしました。
郷士はなかなか難しい立場です。
藩政改革などによって登用されたり、あるいは身分制度がゆるんで郷士の身分を売り買いしたり。
岩崎家はまさにこの「身分の売り買い」によって、時には武士らしく、時には農民らしい暮らしをしていたのです。
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才能あれど挫折も多し
弥太郎が生まれたとき、岩崎家は「地下浪人(郷士の株を売り渡してしまった後)」という身分でした。
その後、次第に家計は立ち直りつつあるも、問題は彼の父・弥次郎。
「気は短く、酒飲み、政治力は皆無で、借金癖もある」という有様です。
ただ、極貧というほどには窮しておらず、岩崎家には息子に教育費を投じる程度の余裕はありました。
弥太郎は学問にのめり込みます。
キッカケは岩崎分家の同級生・岩崎馬之助でした。
藩から学問で奨励された馬之助の姿を見て、幼いころから激情家で負けず嫌いな性格だった弥太郎がライバル心を燃やし、勉学に打ち込んだのです。
頭脳明晰な弥太郎にとって学問は最適でした。
塾でも第一等の成績を得て、さらなる向上を見込まれて、勉学のため高知城下へ。
しかし、その1年後、突如帰郷します。
実家のいざこざによって地元へ呼び戻されたのですが、義理の伯父で学問の面倒を見ていた岡本寧浦(おかもとねいほ)という人物は「これしきのことで帰るとは!」と怒り、しばらく師事できなかったと伝わります。
村へ帰った弥太郎は、3年ほど狩猟に凝った暮らし(言ってしまえばニート)をしたのち、再び寧浦の塾へと出戻ります。
と、その翌年、今度は寧浦が亡くなってしまい、またもや勉学の機会を失うのでした。
江戸へ遊学後 7ヶ月間もの勾留
郷土で悶々とした思いを抱えていたところに転機が訪れたのは嘉永6年(1853年)、弥太郎19歳のときのこと。
藩士の奥宮慥斎(おくみやぞうさい)という人物が江戸へ出向くという噂を聞きつけるや否や、「私も江戸へ遊学したいので、お供にしてください!」と懇願します。
そうでもしないと江戸へ行く手段はなく、ダラダラとした生活から抜け出せない。
そんな必死な弥太郎の願いは叶い、江戸へ出ることが許され、かねてからの悲願であった安積艮斎(あさかごんさい)という人物の塾で充実した時間を過ごしていました。
しかし、同時に実家では大きな問題がくすぶっていました。
酒に酔った父・弥次郎の横暴などもあって、年々激しさを増していた岩崎宗家と分家の対立が激化。
敵視していた庄屋たちに呼び出され、弥次郎が集団暴行に遭い、重傷を負ってしまうのです。
安政2年(1855年)、そんなこと露知らずの弥太郎(21歳)は大慌てで地元に舞い戻り、母はこの事件を役所に訴え出ました。
ところが、普段の行いから弥次郎の味方をする人物は皆無で、帰郷後の弥太郎が正式な訴えを起こしても事態は悪化するばかり。
業を煮やした弥太郎は
事以賄賂成 獄以愛憎決
官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す
と二度も奉行所に書きつけ、結果、牢に繋がれてしまうのです。
江戸に出たエリートから一転、犯罪者の汚名を着せられてしまった弥太郎。
彼を救わんとする人たちの働き掛けもあって釈放されますが、実に7カ月間も勾留され、父の暴行罪そのものは「喧嘩両成敗」として処分されてしまい、無実を証明することはできませんでした。
吉田東洋に推挙されるも
粗暴な父の不名誉により、もはや土佐で出世の道は断たれた――。
そんな絶望感にとらわれる弥太郎に味方したのは「幕末」という時代でした。
吉田東洋との出会いです。
土佐藩では、山内容堂のもとで藩政改革に力をふるった吉田東洋が酒宴の失態から職を追われ、「小林塾」という小さな塾で学問を教えていました。
勉学という理論と、藩での実務を知っている東洋は、弥太郎にとっては最高の教師。
安政5年(1858年)に24歳で同塾へ入ると、後に東洋が追放処分を解かれて藩政に復帰、能力を認められた弥太郎もまた藩の職を得るキッカケになりました。
同塾では、後藤象二郎や福岡孝弟(ふくおかたかちか)といった幕末土佐藩をリードする重要人物たちとの知遇も得ます。
弥太郎は東洋の命によって長崎出張を命じられ、海外の情報収集という職に就きました。
しかし、当時の彼は西洋通でもなく、この仕事に大苦戦。
出張費の大半を遊郭での遊びに投じた挙句、「金もなくなったし成果も上がらない」という理由で無断帰国してしまうのですから、父親に似たというかなんというか……。
土佐に戻れば、案の定、クビです。
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