銀行はじめ商社に重工、不動産など。
日本に多大な影響力を有する財閥グループの中でも筆頭候補に挙げられるのが三菱でしょう。
その創始者は、言わずもがな岩崎弥太郎です。
幕末から明治以降にかけて「政商」として台頭するや、わずか一代で日本のトップグループを形成した起業家で、明治18年(1885年)2月7日はその命日。
今なお偉大な商人として知られますが、実は若い頃は何をやっても長続きしないタイプでした。
しかも商人出身ではありません。
では一体何なのか?
なぜ岩崎弥太郎はあれほどまでに成功したのか?

岩崎弥太郎/wikipediaより引用
本稿では、大河ドラマ『青天を衝け』でもクローズアップされた、渋沢栄一のライバル・岩崎弥太郎の生涯を追ってみましょう。
農民と武士の中間・郷士に生まれた岩崎弥太郎
岩崎弥太郎は天保5年(1835年)12月11日、土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれました。
父は岩崎弥次郎という人物で、形式上は農民の身分。
「形式上」というのは土佐ならではの複雑な仕組みが反映されています。
もともと戦国時代の土佐は、四国を統一した長宗我部氏の本拠であり、岩崎氏もルーツをたどれば彼らの家臣であったと自称します(それを裏付ける家譜などは残されていませんが)。

長宗我部元親/wikipediaより引用
しかし、関ヶ原の戦いや大坂の陣によって長宗我部家は滅亡。
代わりにやってきたのが山内一豊です。
一豊にしてみれば、長宗我部氏を主と仰ぐ勢力は邪魔でしかなく、かといって彼らを無碍に扱い、刺激しすぎても領国経営に支障が出てしまう。
そこで一豊は、長宗我部に仕えた「一領具足(半分武士・半分農民的な家臣)」を遠ざけつつ、あくまで長宗我部氏の政策を引き継ぐという方針を示します。
結果、岩崎氏は農民的でもあり、武士的でもある特殊な「郷士」として江戸時代を過ごしました。
郷士はなかなか難しい立場です。
藩政改革などによって登用されたり、あるいは身分制度がゆるんで郷士の身分を売り買いしたり。
岩崎家はまさにこの「身分の売り買い」によって、時には武士らしく、時には農民らしい暮らしをしていたのです。
才能あれど挫折も多し
弥太郎が生まれたとき、岩崎家は「地下浪人(郷士の株を売り渡してしまった後)」という身分でした。
その後、次第に家計は立ち直りつつあるも、問題は彼の父・弥次郎。
「気は短く、酒飲み、政治力は皆無で、借金癖もある」という有様です。
ただ、極貧というほどには窮しておらず、岩崎家には息子に教育費を投じる程度の余裕はありました。
弥太郎は学問にのめり込みます。
キッカケは岩崎分家の同級生・岩崎馬之助でした。
藩から学問で奨励された馬之助の姿を見て、幼いころから激情家で負けず嫌いな性格だった弥太郎がライバル心を燃やし、勉学に打ち込んだのです。
頭脳明晰な弥太郎にとって学問は最適でした。
塾でも第一等の成績を得て、さらなる向上を見込まれて、勉学のため高知城下へ。

高知城
しかし、その1年後、突如帰郷します。
実家のいざこざによって地元へ呼び戻されたのですが、義理の伯父で学問の面倒を見ていた岡本寧浦(おかもとねいほ)という人物は「これしきのことで帰るとは!」と怒り、しばらく師事できなかったと伝わります。
村へ帰った弥太郎は、3年ほど狩猟に凝った暮らし(言ってしまえばニート)をしたのち、再び寧浦の塾へと出戻ります。
と、その翌年、今度は寧浦が亡くなってしまい、またもや勉学の機会を失うのでした。
江戸へ遊学後 7ヶ月間もの勾留
郷土で悶々とした思いを抱えていたところに転機が訪れたのは嘉永6年(1853年)、弥太郎19歳のときのこと。
藩士の奥宮慥斎(おくみやぞうさい)という人物が江戸へ出向くという噂を聞きつけるや否や、「私も江戸へ遊学したいので、お供にしてください!」と懇願します。
そうでもしないと江戸へ行く手段はなく、ダラダラとした生活から抜け出せない。
そんな必死な弥太郎の願いは叶い、江戸へ出ることが許され、かねてからの悲願であった安積艮斎(あさかごんさい)という人物の塾で充実した時間を過ごしていました。

安積艮斎/wikipediaより引用
しかし、同時に実家では大きな問題がくすぶっていました。
酒に酔った父・弥次郎の横暴などもあって、年々激しさを増していた岩崎宗家と分家の対立が激化。
敵視していた庄屋たちに呼び出され、弥次郎が集団暴行に遭い、重傷を負ってしまうのです。
安政2年(1855年)、そんなこと露知らずの弥太郎(21歳)は大慌てで地元に舞い戻り、母はこの事件を役所に訴え出ました。
ところが、普段の行いから弥次郎の味方をする人物は皆無で、帰郷後の弥太郎が正式な訴えを起こしても事態は悪化するばかり。
業を煮やした弥太郎は
事以賄賂成 獄以愛憎決
官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す
と二度も奉行所に書きつけ、結果、牢に繋がれてしまうのです。
江戸に出たエリートから一転、犯罪者の汚名を着せられてしまった弥太郎。
彼を救わんとする人たちの働き掛けもあって釈放されますが、実に7カ月間も勾留され、父の暴行罪そのものは「喧嘩両成敗」として処分されてしまい、無実を証明することはできませんでした。
吉田東洋に推挙されるも
粗暴な父の不名誉により、もはや土佐で出世の道は断たれた――。
そんな絶望感にとらわれる弥太郎に味方したのは「幕末」という時代でした。
吉田東洋との出会いです。

吉田東洋/wikipediaより引用
土佐藩では、山内容堂のもとで藩政改革に力をふるった吉田東洋が酒宴の失態から職を追われ、「小林塾」という小さな塾で学問を教えていました。
勉学という理論と、藩での実務を知っている東洋は、弥太郎にとっては最高の教師。
安政5年(1858年)に24歳で同塾へ入ると、後に東洋が追放処分を解かれて藩政に復帰、能力を認められた弥太郎もまた藩の職を得るキッカケになりました。
同塾では、後藤象二郎や福岡孝弟(ふくおかたかちか)といった幕末土佐藩をリードする重要人物たちとの知遇も得ます。
弥太郎は東洋の命によって長崎出張を命じられ、海外の情報収集という職に就きました。
しかし、当時の彼は西洋通でもなく、この仕事に大苦戦。
出張費の大半を遊郭での遊びに投じた挙句、「金もなくなったし成果も上がらない」という理由で無断帰国してしまうのですから、父親に似たというかなんというか……。
土佐に戻れば、案の定、クビです。
東洋の暗殺
その後、先祖が売り払った郷士の株を買い戻し、結婚も果たした弥太郎。
再びのチャンスに備えるのですが、このタイミングで土佐藩に激震が走ります。
文久2年(1862年)4月8日、吉田東洋が反発勢力に暗殺され、土佐勤王党を率いた武市瑞山ら尊王攘夷派の勢力が藩の実権を握ってしまったのです。

武市瑞山(武市半平太)/wikipediaより引用
東洋派の弥太郎(28歳)にとっては最悪の展開……と思いきや、待っていたのは意外な展開でした。
弥太郎は、後藤や福岡のように「東洋派の中心人物」でもなく、あくまで派閥の一人に過ぎなかったため、目の敵にされることもなく、逆にその頭脳や経験を買われて、藩主・山内豊範の江戸行きで同行を命じられたのです。
ところが、ところが……。
弥太郎は上洛途上の大坂で「規律違反」を犯したため、強制帰国に追い込まれます。
この一件について詳細は不明です。
東洋の暗殺犯を捜索するため隊列を離れたとか、自由行動の許しが出たと勘違いして失態をしてしまったとか。理由については諸説あり、いずれにせよ地元への強制帰国を強いられます。
しかし能力そのものは、やはり買われていたのでしょう。
弥太郎は井ノ口村で家の再建に尽力し、慶応元年(1865年)には3つの郡を統治する奉行職に命じられました。
奉行を辞した後には、富国強兵を推し進めるため長崎開成館という施設に出仕し、いよいよ31歳、彼の生涯も軌道に乗る……と思いきや、またもや弥太郎の自由な性格がクビをもたげます。
「性に合わないから」という理由から、わずか40日で同職を辞めてしまうのです。
なんだ、この堪え性のない性格は……本当に三菱財閥を創った男なのか?
思わずそんな心配をしてしまう程、奔放な弥太郎ですが、もちろんこのままでは終わりません。
直後、本当の意味で人生の転機を迎えます。
辞めたばかりの長崎開成館で、事実上のトップとして再雇用されたのです。
長崎開成館で才能を開花させる
逃げたばかりの人間を再び雇う……しかも責任者として。
「どうしてそうなった???」と言いたいところですが、この時期の土佐藩は権力が目まぐるしく移り変わり、当時は武市ら尊王攘夷派が藩政から一掃され、山内容堂や後藤象二郎が再び実権を握るようになりました。
これが弥太郎に良い方向で影響します。
長崎開成館は、富国強兵のため後藤が設立したものですが、自身は政治活動も忙しく、組織の誰かに運営を任せようと考えていました。そこで頭脳明晰な弥太郎に白羽の矢が立ったのです。
「思うところがあるからいやじゃ!」と弥太郎は強硬姿勢を見せるも、後藤に派遣された福岡孝弟から「応じんなら処分もあるぜよ」と半ば脅され、やむを得ず長崎出張を受け入れるしかありません。

福岡孝弟/wikipediaより引用
そもそも長崎開成館は、土佐が激動期を生き抜くため重要機関として設立されたもの。
長崎における貿易の窓口だけではなく、坂本龍馬率いる海援隊との交渉役などもあり、非常に重要な役割を担っていました。
弥太郎も、その重要性に気づいたか。あるいは責務の重さがかえって良かったのか。
慶応3年(1867年)には大政奉還が実現して、肝心の龍馬も暗殺されてしまいますが、

坂本龍馬/wikipediaより引用
弥太郎(33歳)の仕事ぶりは順調で、外国商人との交渉やそのために先立つ金策で成果を上げると、多くの人にその能力が認められていくようになりました。
武士より貿易が性に合っていたのでしょう。
戊辰戦争にも将兵として参戦することなく、商会を切り盛りしていましたが、相次ぐ開港によって貿易の中心地も長崎から関西へ移り、弥太郎もまた土佐藩が新しく設立した大阪商会へ移動。
商売人というより、どちらかといえば経済官僚としての経験を積んでいきました。
仕事も拡大し、その出世っぷりは止まりません。
開成館から分離する形で生まれた新たな組織「九十九商会」のトップに就任。
あらためて才覚を発揮する機会を与えられたかのように思えましたが、ここでもまた時代の波に翻弄されます。
明治3年(1870年)の廃藩置県によって職と身分を一気に失ってしまうのです。
このとき36歳でした。
三菱の起点となる「三ツ川商会」の設立
廃藩置県の狙いは「藩」という分権的な組織を「県」として整理し、中央集権化を図ることです。
弥太郎が率いていた九十九商会は、土佐藩の色濃い組織であり、政府にとって好ましい存在ではありません。
いきおい閉鎖の方向へと進みそうになりますが、これに旧土佐藩士たちが反発。
今後の日本は貿易によって利を産まねばならず、ノウハウを積み上げてきた組織を潰すことは国力の低下を意味します。
潰してしまうぐらいならば、いっそのこと弥太郎の「私企業」として残した方がよいのではないか?
一方、そんな打診を受けた弥太郎はかなり迷ったようです。
もともと商人でもない彼は「明治新政府の官僚になって海外で見識を深めるのもよい」と考えでした。
しかし、最終的には「海運一本で行く!」と決断、組織名を「三ツ川商会」と改めます。
部下になった三人(川田小一郎・石川七財・中川亀之助)に共通する「川」という文字をとって、この名称を選んだとされ、三菱の象徴であるスリーダイヤのロゴが誕生したのもこの頃でした。

三菱スリーダイヤ/wikipediaより引用
ちなみに、三人のうち石川は、土佐藩士時代に弥太郎の動きを警戒した藩内の敵対派閥から送り込まれた刺客でした。
弥太郎は、その石川に対し「そんな、くだらんことやってないで私と一緒に仕事をしないか? これからは海運・貿易の時代だろ」と誘い、スカウトに成功したと伝えられます。
新会社・三ツ川商会は、土佐藩所有の藩船を払い下げられることで海運業に乗り出しました。
政府色の強いライバル・日本国郵便汽船株式会社に比べ、三ツ川商会は必ずしも破格の安さとはいえない価格で船の払い下げを受けたようです。
加えて弥太郎は「多忙のため、県に適任者がいれば船を返します」と言っているほどで、この頃は内心まだ迷いがあったのではないかとも指摘されます。
同社や弥太郎に、大きな転機が訪れたのは明治6年(1873年)のことです。
39歳の弥太郎は社名を「三菱商会」と改め、本拠地を東京に移転。
部下に任せきりだった体制を刷新すると、その後は、よく言えば規律のとれた、悪く言えば強権的な弥太郎の経営が幕を開けたのでした。
「政商」として海運業の覇権を握る
当時、太平洋の海運業は、アメリカ資本の「パシフィック・メイル社」が牛耳っていました。
彼らは明治政府に対し、日本近海における海運の委託も求めるようになります。
こうしたアメリカの要求に対し、日本は次第に国産の海運業者を育てようという気になります。
国のバックアップを受けた日本国郵便汽船株式会社が有力候補に挙げられたのですが、同社は国有企業ならではの放漫経営がアダとなり、大量の赤字を垂れ流していました。
一方、社名を「三菱郵便株式会社」として海運に乗り出した弥太郎も、創業当時はなかなか軌道に乗ることができません。
それでも地道な成長を続けていると、明治7年(1874年)、政府による「海運業保護政策」の対象会社となるのです。
政府から助成を受けた三菱は、業績を急拡大させていきますが、同時の当時の政府は「弥太郎は本当に信用するに足る人物なのか?」と疑いの目を向けていました。
そこで弥太郎の元へ出向いたのが、内務省・大蔵省の前島密(まえじまひそか)です。

前島密/国立国会図書館蔵
前島密は弥太郎に問いかけました。
「海運の経験はないようだが、大丈夫なのか」
「確かに経験はありませんね。ただ漢の高祖だって指揮官の経験はないのに有能な人材を指揮して大業を成し遂げましたから」
この大風呂敷がイイ! よし君に任せた!
なんて調子でドラマのように決まったワケではありません。
ライバル・日本国郵便汽船株式会社の放漫な経営姿勢より、荷主たちからの評価も厚く、政府の台湾出兵に協力的だった弥太郎に軍配が上がったのです。
結果として三菱は政府の手厚い保護を受けるに至り、競合他社に差をつけることが可能となりました。
いわば「政商」として三菱の発展が約束されたのです。
その後もパシフィック・メイル社の経営悪化や、明治政府による海外資本の排除政策、あるいは西南戦争時の軍事輸送などを経て、日本の海運を完全に独占。
弥太郎は独裁制を敷きつつ、有能な人材を積極的に登用し、江戸以来続いた商慣習を改めることで巨額の利益を挙げるようになりました。
巨大企業・三菱への批判と大隈の失脚
海運を独占することにより「政商」としての地位を確立した三菱。
彼らは政府と結びつき、この頃になると海上輸送にかかわる業務のほとんどに加え、炭鉱業や造船業にまで手を伸ばしていきました。
同時に、巨大化し過ぎたことで、多くの批判にもさらされます。
当時の新聞に「三菱が不当に高額な運賃を徴収している!」と書かれ、以前、政府から大きな支援を受ける際に交わした「海運専念」という条項に反しているとも指摘されました。
批判は収まるどころか過熱する一方ですが、それは弥太郎の失点だけとも言えません。
三菱が政商である以上、「政府を攻撃すること」と「三菱を攻撃すること」は同様の意味を帯びてきます。
要は政争に巻き込まれるわけで。
実際、三菱を一貫して保護してきた大隈重信が、敵対派閥である薩長派に疎まれ、大隈への攻撃がそのまま三菱にも向けられてしまった形跡があります。

大隈重信/wikipediaより引用
そして明治14年(1881年)には【明治十四年の政変】が勃発。
大隈は政権を去り、三菱も最大の後ろ盾を失いました。
弥太郎47歳のことです。
大隈の失脚によって状況は悪化し、かつては大隈と方向性を共にしていたハズの自由党による「反三菱キャンペーン」も始まりました。
さらに政府は三菱を潰すため刺客を用意するに至ります。
渋沢栄一の共同運輸と「仁義なき戦い」
それは明治15年(1882年)のことでした。
「三菱に対抗できる海運企業を!」というスローガンのもと「共同運輸会社」が誕生。
政府からの手厚い支援に加え、品川弥二郎や井上馨といった政治家や当時の有力実業家が協力を表明し、弥太郎は「四面楚歌」の状況に置かれます。
共同運輸の設立には、あの渋沢栄一もかかわっています。

渋沢栄一/wikipediaより引用
もともと「道徳経済合一説」や「合本主義」という思想を掲げ、「株式会社」という形態を日本に普及させた彼にとって、利益も責任もすべてを独占するという弥太郎の思想は相いれないもの。
実際、渋沢の証言によると、弥太郎から「合本主義(渋沢の掲げた思想)は船頭多くして山に登るようなものではありませんか」と言われたことがあり、二人はお互いの意見を曲げないまま喧嘩別れしてしまったといいます。
こうした渋沢の姿勢からも分かるように、共同運輸と三菱はまさに「仁義なき戦い」というほかない激烈な競争を繰り広げました。
両社はひたすらにダンピングを繰り返し、どちらも赤字を垂れ流す血みどろの戦いへ。
※ただし近年では、景気の悪化が三菱の経営状態を悪くしたのであり、共同運輸との競争が原因ではないという指摘もあります
いずれにせよ、この消耗戦は、後に残るのが焼け野原でしかないことは誰の目にも明らか。
ゆえに政府側から西郷従道農商務大臣が仲裁役に回り、運賃や出航時刻など、サービスに関する協定を結ばせて事態の鎮静化を図ります。
ところが、です。
協定はすぐさま無視され、戦いは以前より過熱化していったのです。
弥太郎の死
過熱する競争の中で経営危機に立たされてしまった三菱。
しかし、そこに弥太郎の姿はありませんでした。
競争真っただ中の明治18年(1885年)2月、弥太郎は胃がんでこの世を去ったのです。
享年51(満50歳)でした。
社長は弟の岩崎弥之助が引き継ぎ、「亡き兄の志を果たす」として、以前と変わらず一歩も譲らない構えを見せます。

岩崎弥之助/wikipediaより引用
この頃には共同運輸の企業体力も限界に差し掛かっており、政府もついに事態の本格的な解決を図ります。
同年4月、政府は三菱・共同の合同会談をセッティング、両社の合併によって海運を一本化することとにしたのです。
こうして誕生したのが「日本郵船」。
現在も日本をリードする会社として知られ、三菱はいったん海運事業を手放すことになりました。
海運事業を手放しても弥太郎が遺した三菱は発展を続けます。
副業で始めた造船・鉱山事業などが大きく伸び、私たちの良く知る三菱財閥(三菱グループ)はこの後に栄華を極めていくのです。
それだけではありません。
合併を機に手放した日本郵船にも三菱出身者が多く在籍しており、次第に三菱グループの中核的な企業と見なされてゆきます。
現代でも、三菱グループの公式サイトでその関連性を確認することができます。
三菱はいったん日本郵船を手放したことによって得た売却益で多角化経営を成功させ、最終的には日本郵船との協力で海運をも手中に収めたのです。
まさに「急がば回れ」というヤツでしょうか。
後年になって岩崎家と渋沢は関係を改善した
勉強しては辞め。
働いては辞め。
前半生だけ見ていると、とても大財閥の創設者になるとも思えない岩崎弥太郎。
彼が掲げた「得も損もすべてオレが背負う」という発想にしても、賛否が分かれるところでしょう。
しかし、彼と激しく対立した渋沢も、後年になって
「私というよりは私の周りの人たちが弥太郎を憎み、彼からひどく嫌われてしまった。結局生前に仲直りできなかった」
と語っています。
また、渋沢が共同運輸側の意見をまとめ、伊藤博文に弥太郎の悪行を報告した際、

伊藤博文/国立国会図書館蔵
伊藤はこう答えたと言います。
「自分を正当化するため他人を非難するというのは、卑怯なやり方ではないか」
このとき渋沢は自分を恥じ、結果、弥太郎の弟である弥之助や川田小一郎らと親しく交際するようになり、三菱のやり方に理解を示すようになりました。
渋沢当人の性格については、外面の良さと、危険な思想や乱れた私生活とのギャップから、多面性あることが知られ、言葉を鵜呑みにすることは危険かもしれない。
しかし、岩崎弥太郎も渋沢栄一も「成功」を収めいてるのは確かなこと。
会社経営には色々な思想があり「他人は他人、自分は自分」というのは、現代にこそ通じる考え方かもしれません。
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【参考文献】
武田晴人『岩崎弥太郎』(→amazon)
小林正彬『岩崎弥太郎』(→amazon)
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon)
渋沢栄一/守屋淳編『現代語訳 渋沢栄一自伝』(→amazon)
三菱グループ「三菱人物伝 岩崎弥太郎」(→link)
同「三菱グループ会社・団体検索」(→link)





