大河ドラマ『青天を衝け』で一躍世間に注目された渋沢栄一。
私生活では常軌を逸するほどの女遊びを繰り返していて、大河で取り上げて大丈夫だったのか――そんな懸念をスッ飛ばし、遥かに超えてくるのが、伊藤博文です。
ご存知、日本初の総理大臣でありながら、女癖の悪さは当時随一、その内容は際どい週刊誌や深夜のテレビ番組で取り上げるようなレベルです。
本稿では、可能な限りマイルドに、伊藤の醜聞エピソードをまとめましたが、もしかしたら皆様の気分を害されるかもしれません。
それを踏まえた上で先へ進みたい方だけ画面をスクロールしてください。
当時から批判され、もはや異常(依存症)とも思える伊藤博文の女性関係とは?
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渋沢の女遊びは伊藤と井上の影響?
数多の女性を愛人にした渋沢栄一は、周囲にこう語っていました。
「明眸皓歯(めいぼうこうし・明るい目に白い歯、美女のこと)以外は恥じることはない」
テロ活動や倒幕活動に勤しんだり、そうかと思ったら幕臣となったり、ありは天狗党事件で仲間を見捨てたり。
時代や環境によって立場をコロコロ変えた渋沢栄一。
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それでも多少の気まずさはあったのか、女遊びのことは本人は認めていました。
同時に、こんな言い訳もしています。
「私の行いが悪いということは、伊藤博文と井上馨の影響もあるのです」
ご存知、長州藩勝利の殊勲者であり、素行の悪さでも著名な二人です。
渋沢本人は、この二人と親しくなる前から遊んでいたと思われますが……ともかく、伊藤と井上の名前を出せば(自分の女遊びについて)世間も納得するだろう、という読みがあったわけです。
要は、ボスキャラってことですね。
渋沢栄一でも相当ヤバい印象ですが、果たして伊藤博文はどの程度だったのか?
明治の賢夫人は夫の愛人に贈り物
2015年大河ドラマ『花燃ゆ』では、【禁門の変】で負けた長州藩を、京雀が応援する場面がありました。
一方、2013年大河ドラマ『八重の桜』では、どんどん焼けの復興にあたる会津藩士・山本覚馬が市民から罵声を浴びせられています。
それほど長州藩士は紳士的だったのか?
会津藩士は下劣だったのか?
そう単純な話でもありません。
金払いの派手な長州藩士は、京雀にとって上客でした。
一方で会津藩士は、貧乏なだけでなく藩からの制約が厳しく、まず遊べない。会津藩では正妻以外との性的関係が禁止されていたほどです。
しかし長州藩士はそうではありません。
伊藤博文の場合、初婚が破綻した理由は「浮気相手の妊娠」でした。
伊藤の最初の妻は、松下村塾の先輩にあたる入江九一と野村靖の妹・すみ子です。
すみ子は養父母と良好な関係を築いたものの、夫の伊藤博文が芸者の梅子を妊娠させたため、離婚に至ったのです。
梅子は賢夫人とされます。苦労した女性です。
なんせ夫の女遊びは以前から常習で、離婚に至るまで何度も黙認してきたどころか、浮気相手に土産すら渡すほどでした。
本妻は悠然と構え、夫の遊びは好きなようにさせておけ――そんなタイプが賢いと思われる明治は、女性にとって辛い時代でもありました。
長州藩士は派手に遊ぶ
幕末の志士は派手に遊んだものとされます。
その中でも長州藩士は際立っておりました。
・放任主義
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・会計システムが緩い
放任的なところは会計でもそうであり、長州藩士たちは金を気前よく使えました。その原資は税金ですが……。
・隠蔽と情報収集
テロ計画を酒の席で練れば、隠蔽になります。色々な客のお座敷にあがる芸妓たちは情報収集にも使えました。
とまぁ、スパイ映画さながらのシステムが確立されていたとも思えます。
しかも倒幕後の勝者となったせいでしょう。
伊藤博文は美人を見つけるやいなや強引に関係を迫るような節操のない権力者となりました。
もはや、民衆の敵――と世間が呆れ果てるほど酷い下半身事情があったのです。
奥羽越列藩同盟を相手にした戊辰戦争が悪化した一因として、長州藩ならではの下劣な下半身事情が挙げられます。
仙台藩に乗り込んだ世良修蔵は、芸妓を侍らせながら横柄な態度を取った。
それが東軍の激しい怒りを引き起こし、世良は暗殺され、泥沼の戦いへ突入してしまったのです。
そのため味方からも
「世良なんかでなく、もっとマトモな奴を交渉役にしていれば……」
と嘆かれたほどお粗末な顛末でした。
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売淫国の棟梁
時代が明治に変わっても長州藩士はおさまりません。
江戸っ子たちは不品行で下劣な連中がやってきたものだと呆れ果てておりました。
現在の価値観で当時を裁いてはいけない――歴史上のスキャンダルはそう恩赦されるものですが、伊藤の場合はそうでもありません。
当時から嫌われ、明治天皇すら呆れ果てました。
紙幣の顔にされ、銅像が建立されると「よりにもよってこんな下劣な奴を!」と大激怒されていたのです。
その下半身事情が世間に知れ渡った伊藤博文はこう称されました。
ヒヒ爺い!
マントヒヒ侯!
売淫国の棟梁!
女たちに万斛(ばんこく、測りきれないほどの量)の涙を飲ませる象徴だ!
明治の御一新はまるで売淫国になってしまったようなものだ。
その中でも伊藤はともかく酷い――。
当時の呼び名から、そんな憤りが伝わってきます。
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