伊藤博文(一番左は高杉晋作)/wikipediaより引用

幕末・維新 明治・大正・昭和

女好きがもはや異常レベルの伊藤博文~女を掃いて捨てる箒と呼ばれ

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
伊藤博文の女性関係
をクリックお願いします。

 


女を掃いて捨てる「箒」

長州藩士の女遊びは激しいものでした。

ただし、誰もが全員同じようにとっかえひっかえするのではなく、必然的に個人の差は出ます。

例えば高杉晋作伊藤博文を比較してみましょう。

「高杉晋作&おうの」のカップルは死別であり、かつ明治を迎えられず、美化されているとはいえ、ロマンがあります。

もちろん高杉の妻・雅子からすれば怒り心頭ではありましょう。

それでも、彼がおうのを思う気持ちは純粋であり、人間として愛していたと思える。

その愛し方は【ドンファン型】と呼ばれます。

相手が複数であるとはいえ、身を焦がすように女を愛する。ロマンチックなプレイボーイですね。

ドン・ファン
本物のドン・ファンってどんな人?紀州ではないプレイボーイ伝説に迫る

続きを見る

では伊藤博文はどうか?

ある旅館の女将はこうこぼしました。

「ほんとうに伊藤さんの惚れっぽさは困ります。あの美人、次はこの美女って……」

伊藤の遊び方は【カサノヴァ型】でした。

フィクションでかなり美化されたドン・ファンとは異なり、がっつくように女漁りをする。

相手の名前も人格もどうでもいい。

美人だったらともかく関係する。

現在ならば「性依存症」と診断されそうなタイプですね。

伊藤のあだ名に「箒(ほうき)」があります。

何人の女性と関係を持ったか本人も覚えていない。

四桁達成かもしれない。

実は美人であるかどうかも関係ない。

ともかく気になる女を見かけたら片っ端から素早く手をつけた。

チリを集めるような感覚で女を抱き、また掃いて捨てるから「箒」と呼ばれたのです。

風流も何もあったものではなく、こんなもん、どんな時代だって異常性があって、嫌われる遊び方でしょう。

現在なら週刊誌どころか本気で通院を勧められるレベルです。

 


チョイト不忠なヒヒジジイ

当時流行していた「演歌」でも、伊藤博文は皮肉られております。

当時の演歌とは演説にメロディをつけたもので、社会風刺に絶好の種。

人気演歌師・添田唖蝉坊はこう歌っています。

あきれてそうろう

口に忠義のこうしゃくしても

酔うて美人の膝枕

不潔な娯楽に日をおくる

チョイト不忠なひひ老爺(じじい)

「あきれてそうろう」は、「候」と伊藤の大磯にあった別荘・滄浪閣。

「こうしゃく」は「講釈」と「公爵」。

それぞれ引っ掛けています。

口では偉そうなことを言っても、酔っ払っては美人の膝枕でニヤニヤ。汚らしい娯楽で生きている、忠誠心もないジジイめ! そう痛烈に皮肉っているのです。

では、不忠とはどういうことか?

前述のように明治天皇ですら、伊藤の女遊びには心を痛め注意をしていました。

しかし、それを聞き入れたりはしないのが伊藤。

尊王もクソもないな!と皮肉られているのです。

 


鹿鳴館が使われなくなったのも伊藤のせい?

教科書でもお馴染みの鹿鳴館。

そこでも伊藤はやらかしています。

鹿鳴館を描いた浮世絵/wikipediaより引用

鹿鳴館は、当時から「金の無駄遣いだ」「猿真似だ」と批判を浴びていました。

フランス人ビゴーが描いた風刺画も結構知られていますよね。

※ビゴーの風刺画=洋装を身に着けた日本人が鏡を見ると、洋装を身に着けた猿が映っているというもの

それは明治20年(1887年)のことでした。

鹿鳴館での仮装舞踏会で、ベネチア紳士に扮して参加した伊藤博文の目がある女性に釘付けとなります。

岩倉具視の三女・戸田極子です。

彼女は際立った美貌で有名だったのですが、すでに既婚の身。

パーティには夫・戸田氏共と参加していたにも関わらず、伊藤はこの伯爵夫人を一室に連れ込み、無理矢理関係を迫ったのです。

極子は驚いて窓から飛び降り、裸足のまま人力車に乗ってなんとか無事に逃れました。

こんな悪行を現代でやれば政治家にせよ経済人にせよ、社会生活から抹殺されてしまうでしょう。

もちろん当時だって許されず、女性の権利向上を目指す『女学雑誌』をはじめ、マスコミがスクープ。

以前から悪名高い伊藤だったため「暴行されたのではないか」とまで噂されてしまいました。

外交のために建てられた建物で、よりにもよって岩倉具視の娘である伯爵夫人を、暴行とは何事か!

ただでさえ評判が悪かった鹿鳴館外交は、まさしく醜聞の中心となり、廃れてゆきます。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-幕末・維新, 明治・大正・昭和
-,

×