大河ドラマ『光る君へ』で衝撃的な最期を迎えた直秀。
散楽の一員であり、かつ盗賊という一面も持っていましたが、彼らの盗み方を見て不思議に思ったことはありませんか?
なぜ金品ではなく衣服ばかり盗んでいくのか――。
しかも盗んだものは貧民に分け与える義賊ともいえる存在でした。
日本の義賊といえば「鼠小僧」が有名です。
有力者の家から盗み、貧者に与えるという点では一致するものの、鼠小僧が大名屋敷の金品を狙ったのに対し、直秀たちは上級貴族の衣服を盗む点が大きく異なる。
一体なぜなのか?
平安時代の社会事情を踏まえながら、十二単(じゅうにひとえ)などにも注目して参りましょう。
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当時は現物支給の世界だった
本題に入るまえに、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ておきたいと思います。
思えばあの作品でも、序盤は素朴な世界観の中で生きていました。
主人公である北条義時の父・時政は、賄賂として新鮮な野菜を持っていきます。
ナスは焼いて食べるとうまいと笑顔を見せる時政は、心の底からよいものを贈るという誠意を感じさせました。
時政の思考はドラマの後半になっても変わらない。
幕府成立後も、新鮮な食物をもらうと露骨に贔屓してしまう姿が出てきました。
その子である北条義時も、思いを寄せる女性には食べ物ばかりを贈ります。
台所で見つけた草餅。
合戦もある中で採取していたキノコ。
相模の海で獲れた魚介類などなど。
後にキノコは三浦義村に「おなごの好物だ」と騙されていたというオチがつきます。
いずれにせよ食べ物ばかりを贈っていた――あの世界観は何なのか?
三谷幸喜さんのユーモアセンスと思われるでしょうか?
当時だって、食べ物以外にも価値のあるモノは登場します。
義時の兄である北条宗時は、平氏への反感を募らせた熱血漢でした。彼は憤りつつ、こう語っていたものです。
「平氏についた連中は馬や女を奪う!」
つまり「馬と女」も魅力ある品だったということがわかりますし、実際、武士にとって馬は言うまでもなく重要でしょう。
かつ「女」が重要であることもわかります。
華麗な衣装には文明の香があった
平安時代が終わって鎌倉時代へ突入しても、依然として続く原始的なやりとり――物々交換の世界は、縄文時代から日本がどれほど進歩したのか?と疑問を抱きたくなるほど素朴な世界観です。
一方で、義時の姉である北条政子は、京から吹いてくる文明の風に魅了されました。
兄の宗時が、流人である源頼朝を匿い、北条家に連れてくると、その姿を見た政子は熱烈に惚れてしまう。
その理由は、彼の周りにある価値観や言動から浮かんできます。
頼朝は信心深く、戦乱の中で命を落とした父や兄の菩提を弔っていました。
筆と紙、仏具を手に取るその姿からは、圧倒的に洗練された文明が感じられてもおかしくありません。
野菜を食べて猪を狩り、馬や女を奪い合う坂東武者と比べたら、全くちがう! として、政子がポーッとなってもおかしくはありません。
京都から来た相手に惚れてしまうのは、政子だけでもありません。
父の北条時政は京都から連れてきた新妻・りく(牧の方)を我が子にデレデレしながら紹介しました。
親子ほど年齢差があるとされ、この妻は政子よりも若かったのではないかという説もあるほど。
若い女と結婚したら、そりゃあ浮かれるよな……と言いたいところですが、それだけではなく、りくには他の坂東女とは大きく異なる点がありました。
衣装です。
時政の娘である政子や、他の坂東の女たちは、動き易そうな質素な衣装でした。一方でりくは、そもそも動くことを想定していないような豪華なもの。
そばに寄るだけで嬉しい、家の中にいるだけで花が咲いているような華麗な姿です。
働かなくていい、ただ座っていればいいんだよ♪ と時政が鼻の下を伸ばしてもおかしくないような華麗さが彼女にはありました。
ここまで見てくると『鎌倉殿の13人』で描かれた平安末期の伊豆における価値観も見えてくるでしょう。
もしも直秀が鎌倉や伊豆に来て、高価な貴族の服を配ったら?
皆、大喜びで拾い集めるに違いありません。
平安時代とは、華麗な服と、それを身につけた人が尊ばれる時代でもあったのです。
あらためて大河ドラマ『光る君へ』の時代へ戻りましょう。
番組の宣伝で「五節の舞姫」となったまひろの姿が映し出されると、こんな指摘がありました。
「藤原為時の資産で、舞姫の衣装を用意できるわけがない」
確かにその通り。舞姫に指定された家は衣装代がかかり、大変な思いをします。
この指摘は、実際の放送が始まると、払拭されました。
舞姫には、もともと左大臣・源雅信の娘・源倫子が指名されていました。
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しかし娘を溺愛する雅信は、倫子が好色な花山天皇の目にとまったらたまらない。そこで為時の娘であるまひろに代役を頼み、衣装も用意された。
ともかく平安時代中期以降の衣装が、高級品であることがわかるでしょう。
女性が“十二単”を身につけ華麗に装う時代
『光る君へ』の制作が発表された時、大河ドラマは戦国幕末作品が中心であることから、取材する側から困惑が広がったとされます。
他ならぬ脚本家の大石静さんも石田三成をドラマにしたかったのに、『光る君へ』のオファーを受けて驚いたのだとか。
そんな困惑もある一方、華麗な十二単が見られることに期待した方もいたことでしょう。
今や平安時代といえば思い浮かぶ衣装の筆頭である十二単。
『源氏物語絵巻』はじめ数多くの作品で描かれ、イメージが強固たるものとしてありますよね。百人一首のカルタ札でもおなじみです。
しかし、改めて見てみると、極めて非効率的、非能動的であり、女性の動きを拘束するものであることがわかります。
不必要なまでに分厚く、脱ぐのも動くのも時間がかかる。
なんせ重いものは20キロはあるとされています。
よくよく考えてみれば、あの衣装は華麗なだけでなく、不自由で女性の地位低下を意味するものであることもわかります。
長い髪もそうでしょう。あれだけの長さとなれば動きは制限されますし、洗髪しようと思えば、わざわざ休暇を取らねばならぬほど大変なものでした。
男女ともに動き回らなければならない時代、服装は当然のことながら軽やかなものとなります。
しかし人間が財産を蓄え、階級が生まれるようになると、動かなくともよい特権階級が生じてきます。
男性は官僚として働かねばならないけれど、時代がくだって文明が成熟すると、家の奥にいる女性は、男性を楽しませ、子を産み育てるだけの存在となってゆきました。
華麗な衣装は女性を縛るものでもあった
平安時代中期は、紫式部と清少納言という、日本史の教科書でもおなじみの女性がいる時代です。
女性も発言権があったし、文字を書き、教養を高めることができた――そんな時代に思えるかもしれません。
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確かにこの頃はまだ儒教規範が浸透しておらず、江戸時代と比較すれば性的規範は自由であり、離婚も、恋愛も、ハードルが低い時代ではありました。
百人一首にも、女性の歌が並んでいます。
しかし、果たして現実はどうか?
紫式部と清少納言はあくまで文学者として名を残したのであり、政治力はありません。伝えられたのは女房としての名前であり、本名すら不明です。
政治力を発揮し得た道長の姉・藤原詮子にせよ、天皇に入内し、男子を産み、我が子が即位したからこそ、権力を得ています。
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平安時代のイメージは、十二単を身につけた女性たちのイメージで固まっています。
しかし、その前の時代も長く続いています。
百人一首の古い絵札では、推古天皇すら十二単を身につけているものがありますが、そうではありません。
もっと活動的で、中国に近い衣装を身につけていました。髪も結い上げていたのです。女性官僚もいて、政治的な権限もありました。
額田王(ぬかたのおおきみ)を描いた画像がイメージしやすいかと思われます。
髪を結い、簪をさし、アクセサリを身につけたこの時代ならば、こうした装身具もお宝とされていたことでしょう。
しかし、「襲」(かさね)でセンスを競う平安時代中期となると、金がかかっているものはともかく衣装であり、最高級品ともなれば海を超えたものもあります。
中国産の絹に、輸入した染料を用いた布地は、庶民が一生目にすることもない華麗なものでした。
『光る君へ』の時代は、女性の地位が低下し、飾り立てる存在となる時代だったのです。
外戚政治が確たるものとなり、有力貴族たちは自分の娘を入内させ、天皇の寵愛を受けるように仕向けることが政争だと認識。
美しい娘を育て、その周りにかしずく女房も飾り立てねばならない。
衣装はどんどん重ねられて、その「襲」(かさね)を御簾や牛車からのぞかせることで、美的センスを見せつけました。
有力貴族の家にある衣装
高価な衣装を女房自ら用意するのは厳しいものがあります。
そこで有力貴族たちは、サロンに出入りする女性に衣装を支給することもありました。『源氏物語』でも、光源氏が衣装を見立てる場面がありますね。
当時の女性たちは自分たちの好みで衣装を選んでいたとも限らず、男性権力者の着せ替え人形のように衣装を支給されていることもあるのです。
そんな衣装であればこそ、盗まれた記録も出てきます。
例えば『紫式部日記』にも、盗賊に遭ってしまった女房の話が出てきます。服を脱がされ、裸で震える同僚の姿に紫式部が衝撃を受けているのです。
たまたま弟・藤原惟規の出勤日だったことから、惟規が捕まえたりしないかな?と、活躍を期待していたものの、この日は早々と退勤しており、姉としては失望する羽目に陥るのでした。
屋内で脱がされたならまだ幸運です。
屋外に連れ去られた上で衣服を剥がれると、そのまま凍死してしまう危険性すらあった時代です。
『光る君へ』の盗賊は、こうして考えてくるとその時代らしい盗み方をしています。
左大臣源雅信の家に忍び込み、テキパキと衣装を持ち出す。
直秀が東三条の藤原兼家邸に招かれると、屋敷の構造を道長に尋ねていた。
そして東三条に盗みに入ったところで捉えられ、検非違使に突き出されてしまいます。
兼家の家はただの金持ちでもありません。
入内させた娘がいて、それに仕える女房もいる。センスのいい道隆と高階貴子夫妻ならば、さぞや目の肥えた素晴らしい衣装を用意していることだろう。
そう目星をつけて盗んだのだとすれば、合理的な行動といえました。
貴族の家には、衣装以外にも様々な貴重品があります。
文房四宝に、琵琶をはじめとした楽器。
海外から買い付けた陶磁器。
男性の衣冠束帯には貴石も用いられています。
しかし当時は身分による服飾や持ち物の制限も多く、文房四宝や楽器は使い方がわからなければ持て余してしまう。
そんなときに手っ取り早いのが、やはり衣装なのです。
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鳥籠の中に閉じ込められた小鳥
華麗な十二単の裏には、様々な要素が見え隠れしています。
西洋のコルセットやハイヒール、中国の纒足ほど露骨ではありませんが、当時の衣装も十分不自由で、女性を縛り付けるものもあったのです。
『鎌倉殿の13人』において源頼朝の妻となった政子は、義母であるりくに勝るとも劣らない服を身につけるようになりました。
そんな政子が、お忍びで義時の家を訪れた際、昔のような質素な服装をしていました。
義時がその方が似合うと指摘すると、政子も実はそうなのだと答える。
身分が高くなり、飾り立てることで権威を身につけることは、自由を失うことでもありました。
思えば『光る君へ』でも、まひろは序盤から活発に外を出歩いています。
家の外を歩き回り、散楽を見ては笑う――そんなまひろを見て、道長はこんなふうに笑う女を初めて見たと興味深そうにしていました。
今後まひろは、成長するにつれ、服装も豪華となることでしょう。
藤原彰子の女房として出仕すれば、道長が重く美しい衣装を提供するに違いありません。
その姿はきっと美しい。
されど同時に、自由を失い、鳥籠の中に閉じ込められた小鳥のような姿なのかもしれません。
★
『光る君へ』の第9話で、都を鳥籠にたとえた直秀は、そこを出ていく「自分についてくるか?」とまひろに問いかけました。
もしもまひろが応じていたら、十二単に閉じ込められる小鳥にはならなかったでしょう。
しかし、彼女は残った。
そして、鳥の羽根をむしり、撒き散らすように盗んだ衣類を民に与えた直秀は、検非違使たちによって殺害され、鳥辺野に打ち捨てられていた。
これから先、まひろと道長はどんな思いで彼を思い出すのでしょうか。
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【参考文献】
榎村寛之『謎の平安前期: 桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(→amazon)
倉本一宏『平安京の下級官人』(→amazon)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
他









