北条宗時

北条宗時の墓(静岡県田方郡函南町大竹)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

北条宗時は時政の嫡男で義時の兄~ドラマのように最期は暗殺されてしまうのか

治承4年(1180年)8月24日は北条宗時が亡くなった日です。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では片岡愛之助さんが演じていた、主人公・北条義時の兄。

どちらかというとおとなしい弟・義時に対し、兄の宗時は序盤から「平家をぶっ潰す!」と鼻息荒い姿が印象的でしたが、志半ばで暗殺されるという悲劇的な結末を迎えています。

では一体、史実ではどんな存在だったのか?

宗時の生涯を振り返ってみましょう。

 

北条宗時 三郎という名の嫡男

北条宗時は伊豆の豪族・北条時政の嫡男として生まれました。

生年は不詳ですが、二男とされる義時より当然、年上。北条政子から見ても兄とされています。

母は、ドラマの中で彼らが「爺様」と呼んでいた伊東祐親、その娘です。

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時政には妻が複数名いて、宗時と母を同じくする弟妹は、義時の他に阿波局(劇中では実衣・みい)がいました。

北条政子の母は史実でも不詳となっています。

時政の嫡男である宗時ですが、「三郎」と呼ばれるため、兄が二人いてもおかしくないように思えますよね。

弟の義時も「江間小四郎」とされた時期があり、やはり、上に二人いそうな気がしてきますが、日本の歴史では、生まれ順と名前が必ずしも一致しない、ややこしい特徴があることに注意です。

例えば同じ三谷作品の『真田丸』でも、真田信幸(信之)と真田信繁がそう。

兄が源三郎で、弟が源二郎(次郎)でした。

いずれにせよ確実なことは、宗時が嫡男だったということです。

そのことが史実に、どう影響していたのでしょう?

 

嫡男として歴史を変える恋を支持

ドラマでの北条宗時は、とにかく「平家打倒!」でちょっと暑苦しく、しかも雑なお兄ちゃんというイメージでした。

見つかればただでは済まない源頼朝を匿っておきながら、無造作に義時へ世話役を丸投げしたり、和田義盛畠山重忠まで呼び出したり。

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危なっかしくて見てられない方も多かったかもしれません。

しかも、その頼朝は八重に子供まで産ませています。

そんなことが平家にバレたらどうなるかわかったもんじゃないですし、かくいう北条家にも政子という年頃の女性がいたのですから、常識で考えれば史実の宗時だって頼朝を警戒した……のでしょうか?

ご存知の通り、頼朝と政子は結ばれます。

もしも嫡男である宗時が、頼朝への助力を拒めば、北条家として援助することは難しく、二人の婚姻もなかったでしょう。

ゆえに……結果から見た考察ですが、宗時が二人を応援していた可能性は否定できません。

詰まるところ二人の恋が【鎌倉時代の始まり】となるのですから、ドラマの宗時も大事な存在であることは間違いありません。

ただし、史実における彼の生涯はさほど長くありません。

いざ治承・寿永の乱(源平合戦)が始まると、早い段階で退場してしまうのです。

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