道元

道元/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

なぜ曹洞宗の道元は自ら宗派を開いたのか?弟子・懐奘との間にあった師弟愛に感涙

建長5年(1253年)8月28日は道元の命日です。

いったい誰のこと?と思われる方が多いかもしれません。

道元とは曹洞宗の僧侶……というか、それを始めた開祖であり、日本史受験の難関ネタでお馴染み「鎌倉仏教」の一つでもありますね。

武者の世にできた新しい仏教とも言えますが、なぜ道元は曹洞宗を開くことになったのか? 他の鎌倉仏教と比較して何が違うのか?

道元の生涯と共に振り返ってみましょう。

道元/wikipediaより引用

 


早くに両親が他界 中学生で出家を決める

いかにも偉い僧侶を父に持ちそうな名前の道元。

実は正治二年(1200年)、内大臣・源通親と、摂政太政大臣・藤原基房の娘の間に生まれたといわれています。

源通親/wikipediaより引用

なんだよバリバリの上級貴族じゃねーか!

とツッコミたくなりますように、父方を遡れば村上天皇の第七皇子・具平ともひら親王に、母方をたどれば藤原道長へ行きつく、一見かなりの名門出身者。

しかし幼い頃に両親が亡くなってしまい、伯父・藤原師家もろいえに引き取られて育ちました。

残念なことに、この時代の貴族にとって、幼い頃の親との死別は、後ろ盾を失うことであり、ほぼ“詰み”を意味します。

そのためか、道元は自らの意思で仏門に入る事を決意し、伯父の制止を振り切って比叡山で出家しました。

建保元年(1213年)のことですから、現代でいえば中学生で自らの将来を決めたことになります。この時代では元服していてもおかしくない歳ではありますが、何とも思い切りのいいことですね。

比叡山は天台宗の総本山ですから、当然、道元も天台宗の教義を学びます。

しかしそのうち疑念が生まれます。

「天台宗では『一切の衆生はもともと仏である』としている。ならばなぜ、人は修行を積まなければならないのか」

もっともな話でしょう。

そして比叡山にいる限りこの疑問は解けないと感じ、比叡山を降りて、近くにある園城寺(おんじょうじ/現・滋賀県大津市)の僧侶・公胤(こういん)を訪ねました。

園城寺/photo by 663highland wikipediaより引用

余談ですがこの園城寺、これ以前から比叡山と対立して焼き討ちに遭ったこともあるという、凄まじい関係のお寺です。

道元が具体的に何を考えて園城寺を訪ねたのかは判然としませんが、いきなり敵対関係にある人を頼るあたり、思い切りがいいというかなんというか……。

 


大陸で禅宗を学ぶため、まずはツテを作りに建仁寺へ

公胤は道元の疑念には答えなかった、といわれています。

「その発想はなかった」状態だったんですかね。そんなまさか。

代わりに「それなら、大陸に渡って直に禅宗を学ぶと良い」と宋への渡航を薦めます。

道元は早速行動に移します。

まずはツテを作るため建保五年(1217年)、臨済宗の総本山・建仁寺に赴き、栄西の弟子・明全(みょうぜん)を師とし、六年ほど修行。

臨済宗・開祖の栄西は、この二年ほど前に亡くなっていたとされていますが、道元の後年の言動によると、何回かは会ったことがあるようです。

栄西/wikipediaより引用

そして貞応二年(1223年)、道元は明全のお供のような形で宋へ渡りました。

上陸したのは、現在の寧波(ニンポー)だったそうです。

ここは上海の南にある町で、古くから遣唐使が上陸したり、日本の貿易船が入ったり、日本人の出入りが珍しくない土地です。

まだ23歳の若き僧侶の目に、大陸の景色はさぞ雄大に映ったことでしょう。

しかし、宋で道元へ最初に衝撃を与えたのは、とある老僧との対話でした。

 


「お若いの、修行とは禅や経だけではないのだよ」

その老僧は、かつてはとあるお寺の住職を務めたことがあるほど、見識の高い人。

ところが初心に返って修行をやり直そうと決意し、道元と出会ったときには、別のお寺で典座(てんぞ・僧侶たちの食事を用意する役目)をしている、と話しました。

寧波に来ていたのも、お寺の料理でダシをとるのに使う椎茸を買うためです。

当時は日本産の椎茸が大陸で好まれていたようですね。

椎茸

現代では中国産の椎茸が日本で売られていることも多いですし、真逆になっていて面白いものです。

それはさておき、道元は不思議でたまりません。

「なぜ貴方のような修行を積んだ僧侶が、典座のような下働きをしているのですか? それに、修行をやり直すのであれば、経典を詠んだり座禅を組むのが本筋ではありませんか? どうして、料理のような雑用をやっているのですか?」

※他にも道元が投げかけた疑問は多々ありますが、長いので割愛

道元の問いに、老僧は笑って答えました。

「お若いの、貴方はまだご存じないようだが、修行とは禅や経だけではないのだよ」

そう言って、去っていったのだといいます。

老僧の言葉をよくよく噛み締めた道元は、やがて気づきます。

「そうだ、料理を仕事にしている者にとって、料理は雑用ではない。軽んじる気持ちがあるから、雑用だと思ってしまうのだ」

それ以降の道元は、今までの自分が頭でっかちだったことに気づき、気合を入れ直して修行に励もうと、決意を新たにしたといいます。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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