源倫子

敦成親王・五十日の祝儀を描いた『紫式部日記絵巻』/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

なぜ源倫子は出世の見込み薄い道長を夫にしたのか? 超長寿90年の生涯に注目

2025/05/31

天喜元年(1053年)6月1日は源倫子の命日です。

今までだったら「誰それ?」という扱いだったであろう彼女も、2024年の大河ドラマ『光る君へ』で一気に状況が変わりましたね。

フワフワとしながら芯が強い、非常に難しい役どころを黒木華さんが演じられました。

夫である藤原道長と、友人であるまひろとの関係にハラハラしながらドラマを視聴されていた方も多いでしょう。

本稿では、史実における源倫子に注目。

藤原道長を日本一の権力者へと押し上げた女性は一体どんな方だったのか?

振り返ってみましょう。

 


源倫子は宇多天皇のひ孫

源倫子は康保元年(964年)、左大臣・源雅信(みなもと の まさざね)と藤原穆子(ふじわら の ぼくし/あつこ)の娘として生まれました。

父は宇多天皇の孫ですので、倫子はそのひ孫。

母の穆子も藤原北家の血を引いており、かなり高貴な生まれのお姫様です。

娘を持つ親としては自然と「天皇の后にする」ことが第一目標となるようなポジションでした。

しかし残念なことに、年頃の合う花山天皇(安和元年・968年生まれ)はあっという間に退位してしまい、

道兼によって出家に追い込まれた花山天皇を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用

次に即位した一条天皇は天元三年(980年)生まれで、彼女とは歳が離れすぎです。

上皇のもとに入内というルートもなくはない話です。

それでも花山天皇はクーデターによって退位したため後ろ盾が弱く、一条天皇とも親子関係ではないことから、父として娘の入内には踏み切れなかったのでしょう。

すっかり困り果てた雅信のもとへ、結婚の申し込みが舞い込みます。

藤原兼家の五男である藤原道長です。

当時の道長は、兼家の庇護を受けながら、兄たちの日陰に隠れているような存在。

平安貴族の結婚は、妻側の両親が夫婦の経済的支援をするものですから、出世の見込みが薄い道長と娘の結婚は、気が進まなかったことでしょう。

良い点と言えば、道長が倫子の二歳下で、年齢が見合うことぐらい。

花山天皇を実質的に退位させたのが道長の父・兼家だったということも、雅信としては悩ましいポイントだったようです。

しかし、悶々とする夫に対し、妻の藤原穆子は乗り気でした。

「倫子に見合う年齢の方は他にいないじゃないですか! 結婚ができなくなる歳になる前に、道長殿に望みをかけたほうがいいでしょ!」

「確かにこのまま行き遅れるよりは……」

かくして二人の結婚が決定。

源倫子24歳、藤原道長22歳――当時の基準では遅めの結婚でした。

 


道長との間に二男四女の子沢山

二人の婚姻により、父である源雅信藤原兼家の関係も良くなり、息子の道長は強固な後ろ盾を得ることになりました。

雅信は当時公卿の首席ともいえる「一上(いちのかみ)」だったため、一気に立場を上げた兼家としては、どうにかこうにかして関係を改善したかったのでしょう。

地味ではありますが「歴史が動いた瞬間」といえます。

道長当人にとっても、妻やその実家には深い感謝の念を抱いており、決して粗略にはしませんでした。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

特に源倫子との仲の良さは、子女の多さからもうかがえます。

永延二年(988年)彰子

正暦三年(992年)頼通

正暦五年(994年)妍子

長徳二年(996年)教通

長保元年(999年)威子

寛弘四年(1007年)嬉子

実に二男四女という子沢山に恵まれたのです。

定期的に生まれているあたり、道長のマメさもうかがえますね。

長男・藤原頼通の誕生前後に、道長は源明子とも結婚していますが、これは姉・藤原詮子(東三条院詮子)のゴリ押しもあってのこと。

藤原詮子/wikipediaより引用

道長はあくまで倫子を正妻として扱い、明子との間に生まれた数多の子供については、後の出世で差をつけるなどしていました。

明子の立場としては辛い話であり、その辺はドラマでも詳細に描かれましたね……。

倫子はその余裕もあってか、明子の子供たちにも一定の配慮をしていたようです。

そもそも道長の出世も、姉である藤原詮子の引き立てがあってこそで、簡単には逆らえない状況ですから仕方ないかもしれません。

兼家や道長の出世は「周囲の女性やその実家あってこそ」と言えるでしょう。

 

彰子の入内に向けて

実家の経済支援もさることながら、源倫子本人も負けていません。

特に娘の藤原彰子が成長し、入内が見えてきてからは、彼女の動きも活発になっていきます。

長徳4年(998年)正月の女叙位で、倫子は宮仕えしていないにもかかわらず従五位上になると、同年10月には従三位へ。

これまた藤原詮子が「宿下がりの際に土御門第や一条第で世話になっているので」という理由で、タイミング的には彰子入内に向けての下準備と見なされています。

倫子は、この時代の貴族女性としては、かなり丈夫な身体だったのでしょう。

彰子の入内前には、自身が臨月間近の身でありながら、娘に付き添っていたりします。

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)

そして長保二年(1000年)に彰子が立后された際には、「土御門第から入内した」という理由で倫子も従二位に上げられました。

道長が、倫子を重んじていたことを示す逸話も伝わっています。

それは長保三年(1001年)10月のこと。

道長の姉である藤原詮子の【四十の賀】が土御門第で行われることになりました。

40歳になった女性を身内で祝うもので、舞などを務める者も当然身内が多くなります。

そこで倫子の子である鶴君(のちの藤原頼通)より、明子の子・巌君(のちの藤原頼宗)が見事な舞を見せると、道長が機嫌を悪くして中座してしまったというのです。

いったい何事か?

藤原実資の日記『小右記』では、こんな風にまとめられています。

藤原実資/wikipediaより引用

「鶴君は正室の子で愛着が深く、巌君は妾の子なので愛着がなかったからだろう」

しかし後世では、別の見方も強くなっています。

「倫子が同席していたため、彼女の面子を立てようとしたのでは?」

後者が正しければ、道長が倫子やその実家に気配りを欠かさなかったことが見てとれますね。

「この世をばわが世とぞ思ふ……」望月の歌から、道長というと強引で豪快な人物像をイメージしてしまうかもしれませんが、倫子との関わりを見る限り、繊細な性格の持ち主も浮かんできます。

実際、こちらの姿のほうが実像に近いのかもしれませんね。

 


『紫式部日記』にもたびたび登場

藤原道長は彰子の懐妊を心待ちにしていました。

しかし、幼くして入内したため、そうは簡単にはいかず、寛弘4年(1007年)には源倫子のほうが先に、末娘となる嬉子を産んでいます。

むろん道長にとって喜ばしいことに変わりなく、彰子から倫子へ出産祝いが送られたりもしていますが、三人とも少々複雑な心持ちだったかもしれませんね。

紫式部の『紫式部日記』にも、源倫子はたびたび登場します。

寛弘5年(1008年)、彰子の初産となった敦成親王の誕生のことです。

出産には出血を伴うため、歴代の后妃は内裏ではなく宿下がりするのが慣例でした。

そのため彰子も土御門第でお産を迎えることになり、紫式部を含めた大勢の女房たちが同行しています。

季節は9月。

9日には「重陽の節句」という、長寿を願う行事があります。

現代では廃れてしまっていますが、ひとケタの奇数の中で「9」は最も大きな数字であり、平均寿命が短かった時代には重んじられていた節句です。

そこで倫子は、紫式部にも重陽の節句の贈り物をしました。

「菊の被綿」と呼ばれるものです。

前日9月8日の夜に、菊の花に綿をかぶせて夜露を吸わせ、9日にその綿で体を拭うと、老いが取り払われて寿命が伸びる……とされていました。

この頃の紫式部については『源氏物語』や彼女の才覚について、すでに道長や彰子から聞いていたでしょうから、

「長生きして、娘にできるだけ長く仕えてほしい」

という親心があったのかもしれません。

紫式部は恐縮し、

「恐れ多いので、ほんの少しだけいただいて倫子様にお返ししよう」

と思って菊綿を返す際に添える歌を詠んでいたのですが、その間に倫子が帰ってしまったので贈るのはやめにした、と書いています。

この菊綿は紫式部に対し特別に贈られた、というような書かれ方をしているので、

「紫式部は道長の妾だった説」

を支持する方の中には”正室と妾が火花を散らした出来事”として捉える向きもあるようです。

しかし倫子からすれば、そんな火花など散らしている場合じゃなかったでしょう。

紫式部は『源氏物語』の著者として当時から知られ、娘の教育係としても他に得難い人物。

子供のことを考えれば、噂だけで意地悪を仕掛けている場合ではないでしょう。

そもそも、彼女が嫉妬深い性格だったら、道長との間に何人も子をもうけて醍醐天皇の孫でもある明子に対し、もっとキツイことをしていたのではないでしょうか。

確かに明子の父・源高明は【安和の変】で失脚していましたが、当時は何がどう転ぶかわからない状況です。

明確に潰すべきライバルがいるとすれば明子であり、わざわざ紫式部を敵に回している場合でもないでしょう。

 

夫の戯言に機嫌を損ねてその場を立ち去る

源倫子の夫である藤原道長は、悪ふざけが好きだったのか――紫式部日記には、こんなエピソードもあります。

敦成親王の誕生50日の宴で、酔った道長が

「私は中宮の父として恥ずかしくないし、中宮も私の娘としてはまずくない。中宮の母(倫子)も良い夫を持ったと思っているようにみえる」

などと戯れ、倫子が機嫌を損ねた(恥ずかしかった?)ため、その場を立ち去ってしまったというのです。

道長は言い訳をしながらその後を追いかけ、女房たちに微笑ましく見守られたようで……。

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)

人間のやることって、今も昔もあまり変わりませんね。

また、敦成親王の誕生に伴い、倫子には従一位が与えられました。

当初は道長に与えられる予定だったのですが、辞退したため彼女へ。

従一位は女性の最高位階であり、宮仕えをしていない女性が賜るというのは当時で史上初のことです。

たしかに道長の代わりという経緯はありましたが、倫子は彰子の入内以降に宮中へ参上することも多かったので、実質的には宮仕え同然と考えられたのかもしれません。

日記の中では道長のことを厳しく書く藤原実資も、倫子の振る舞いについてはあまり記しておらず、目に余るようなこともなかったのではないかと思われます。

 

90歳の長寿

万寿四年(1028年)、夫の藤原道長が亡くなりました。

源倫子は以降もしばらく元気に長生きします。

長元六年(1033年)には70歳の御賀が行われ、お祝いに和歌屏風が作られると、その清書を三蹟の一人・藤原佐理の娘が見事に書き上げています。

倫子と佐理の娘はおそらく同世代。

数は少ないながら、この時代にも矍鑠(かくしゃく)とした老人がいたことがわかります。

しかし、元気で長生きするというのも、実は辛いものです。

前述の通り、道長とも死に別れていますし、倫子の産んだ子供のうち、

嬉子が万寿二年(1025年)

妍子が万寿四年(1027年)

威子が長元九年(1036年)

と、三人の娘に先立たれていました。

流行り病も多い時代ですし、公衆衛生や生活習慣などによって寿命が縮まる要因が積み重なったのでしょうか。

彰子と頼通・教通は長生きしていますので、この三人が後半生の倫子を心身ともに支えていたのでしょうね。

当時は、夫の死後にすぐ出家する女性も珍しくない中、倫子が出家したのは長暦三年(1039年)。

倫子は自らの日記などを残していないため、10年以上の間隔があった理由は不明です。

おそらく彰子を始め、入内させた娘たちのことが気にかかっていたのでしょう。

法名は清浄法と言い、彼女は出家後もさらに長生き。

亡くなったのは天喜元年(1053年)6月11日――なんと90歳という長寿でした。

京都仁和寺の北に葬られたとされています。

仁和寺が、彼女の先祖である光孝天皇宇多天皇によって創建されたためです。

光孝天皇/wikipediaより引用

大河ドラマ『光る君へ』では黒木華さんが演じた源倫子。

エピソードも多く、主人公たちにも近い存在のため、最後までかなり重要なポジションでした。

ドラマのおかげ彼女に興味を持たれた方もかなり多かったでしょう。

今後も各種記事やフィクションで彼女の知名度が上がってゆけば楽しいですね。


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【参考】
『国史大辞典』
紫式部/山本淳子『紫式部日記』(→amazon
藤原道長/繁田信一『御堂関白記』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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