・子孫へ礼儀作法を伝える
・事件などを記録しておく
ために日々の事柄を残していました。
基本的に”他人に読まれること”が前提であり、時に子孫へのアピールとして強烈な表現が用いられるなど著者の主観的な表現もあり、同じ出来事でも著者によって全く印象が変わることもあります。
また、日記の形態を取る物語の代表格『土佐日記』の冒頭でも述べられているように、当時の日記は男性が書くものでした。
それが『土佐日記』や『蜻蛉日記』の登場によって、女性の日記も徐々に現れ始めます。
そんな中で、紫式部が記したのが『紫式部日記』です。
藤原彰子の出産が描かれた大河ドラマ『光る君へ』第36回では「若紫」のシーンも出てくるなど、大変注目されていますので、「一体何が書かれているのか?」と興味をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
今回はその内容をわかりやすくまとめて参りましょう。
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紫式部日記には誰が出ている?
紫式部の主人である藤原彰子は、一条天皇の中宮ですから、当然その周囲には多くの人がいます。
おおまかに分けると
こんな感じで、彼ら彼女らが紫式部日記に登場。
大河ドラマの相関図などを見てみると、イメージしやすいかもしれませんね。
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日記本文の書き出しは、「彰子が出産のため後宮から実家にあたる土御門第(つちみかどてい)に退出したところ」から始まります。
臨月で苦しそうにしながらも、落ち着いた様子の彰子を讃えているのが印象的。
そしていよいよお産という日になるのですが、初産ということもあってか、なかなか産まれませんでした。
あまりにも時間がかかったため、直接介助する女房以外の人々も不安のあまり泣き出してしまったほどです。
紫式部もその一人だったと思われます。
当時は「病=悪霊」の仕業と考える価値観が強く、難産もその一種だとみられていました。
そのため、彰子の出産に際しても魔除けの祈祷などが行われていたのですが、それでもなかなか産まれなかったので、形式的な出家をして仏の加護を願うことに。
そこで彰子の髪を一部だけ削いだのですが、その様子を見て紫式部たちは「目の前が真っ暗になったような心地がした」といいます。
彰子は当時数え21歳。
無事、御子に恵まれればこの世の春を謳歌できるはずの若さで、形だけとはいえ出家してしまったのですから、惜しまれる気持ちもあったでしょう。
出家のご利益なのかどうかはわかりませんが、その後、彰子は無事に敦成親王を出産。
男御子だったことで一気にお祝いムードになり、女房たちも化粧が剥げているのも気にせず喜びあったとか。
中には几帳の上からそれを覗く男性貴族もいたらしく、紫式部は後から振り返って苦笑しています。
道長の爺馬鹿エピソードも
そこからしばらく、敦成親王のお祝いの儀式が続きます。
御湯殿の儀(今でいう沐浴)の際には、藤原道長が敦成親王を抱いていたところ、おしっこをひっかけられてしまい、
「親王様のおしっこに濡れるとは嬉しいことよの」
と、ジジバカぶりを発揮。
初孫で皇子だったため、なんでも嬉しく思えたのでしょうね。
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従来、后妃が出産した際は、宮中に戻るまで父帝と母子は対面しないことになっています。
しかしこのときは、およそ一ヶ月後の10月16日に、一条天皇が土御門第に行幸して母子に会っていました。
道長との関係強化など、おそらく政治的な理由が大きいのでしょう。
彰子と一条天皇の関係については定説がありませんが、彰子は一条天皇の意向を受けて動いていたことも多いので、めちゃくちゃ険悪ということはなかったと思われます。
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