平安文学の一翼を担うジャンル「日記」――当時の貴族は
・子孫へ礼儀作法を伝える
・事件などを記録しておく
ために日々の事柄を残していました。
基本的に”他人に読まれること”が前提であり、時に子孫へのアピールとして強烈な表現が用いられるなど著者の主観的な表現もあり、同じ出来事でも著者によって全く印象が変わることもあります。
また、日記の形態を取る物語の代表格『土佐日記』の冒頭でも述べられているように、当時の日記は男性が書くものでした。
それが『土佐日記』や『蜻蛉日記』の登場によって、女性の日記も徐々に現れ始めます。
そんな中で、紫式部が記したのが『紫式部日記』です。
藤原彰子の出産が描かれた大河ドラマ『光る君へ』第36回では「若紫」のシーンも出てくるなど、大変注目されていますので、「一体何が書かれているのか?」と興味をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
今回はその内容をわかりやすくまとめて参りましょう。

『光る君へ』でも描かれた五十日の祝い(いかのいわい)/紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)
紫式部日記には誰が出ている?
紫式部の主人である藤原彰子は、一条天皇の中宮ですから、当然その周囲には多くの人がいます。
おおまかに分けると
・彰子の両親である藤原道長と源倫子(みなもと の りんし/みちこ)
・彰子の同母弟である藤原頼通
・彰子の女房たち(=紫式部の同僚)
・朝廷に仕える貴族たち(藤原公任など)
こんな感じで、彼ら彼女らが紫式部日記に登場。
大河ドラマの相関図などを見てみると、イメージしやすいかもしれませんね。
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日記本文の書き出しは、「彰子が出産のため後宮から実家にあたる土御門第(つちみかどてい)に退出したところ」から始まります。
臨月で苦しそうにしながらも、落ち着いた様子の彰子を讃えているのが印象的。
そしていよいよお産という日になるのですが、初産ということもあってか、なかなか産まれませんでした。
あまりにも時間がかかったため、直接介助する女房以外の人々も不安のあまり泣き出してしまったほどです。
紫式部もその一人だったと思われます。
当時は「病=悪霊」の仕業と考える価値観が強く、難産もその一種だとみられていました。
そのため、彰子の出産に際しても魔除けの祈祷などが行われていたのですが、それでもなかなか産まれなかったので、形式的な出家をして仏の加護を願うことに。
そこで彰子の髪を一部だけ削いだのですが、その様子を見て紫式部たちは「目の前が真っ暗になったような心地がした」といいます。
彰子は当時数え21歳。
無事、御子に恵まれればこの世の春を謳歌できるはずの若さで、形だけとはいえ出家してしまったのですから、惜しまれる気持ちもあったでしょう。
出家のご利益なのかどうかはわかりませんが、その後、彰子は無事に敦成親王を出産。
男御子だったことで一気にお祝いムードになり、女房たちも化粧が剥げているのも気にせず喜びあったとか。
中には几帳の上からそれを覗く男性貴族もいたらしく、紫式部は後から振り返って苦笑しています。
道長の爺馬鹿エピソードも
そこからしばらく、敦成親王のお祝いの儀式が続きます。
御湯殿の儀(今でいう沐浴)の際には、藤原道長が敦成親王を抱いていたところ、おしっこをひっかけられてしまい、
「親王様のおしっこに濡れるとは嬉しいことよの」
と、ジジバカぶりを発揮。
初孫で皇子だったため、なんでも嬉しく思えたのでしょうね。
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従来、后妃が出産した際は、宮中に戻るまで父帝と母子は対面しないことになっています。
しかしこのときは、およそ一ヶ月後の10月16日に、一条天皇が土御門第に行幸して母子に会っていました。
道長との関係強化など、おそらく政治的な理由が大きいのでしょう。
彰子と一条天皇の関係については定説がありませんが、彰子は一条天皇の意向を受けて動いていたことも多いので、めちゃくちゃ険悪ということはなかったと思われます。
公任「このあたりに若紫はおられませんか」
生後50日目の【五十日の祝い(いかのいわい)】の席では、紫式部にまつわる有名なエピソードがあります。
当時随一の文化人・藤原公任が女房たちのいるあたりにやってきて、
「このあたりに若紫はおられませんか」
と問いかけたという話です。

『光る君へ』でも描かれた「五十日の祝い」(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)
このことから「敦成親王の産まれた頃には、源氏物語が貴族社会で広く読まれていた」と考えられています。
もちろん完成はしていなかったでしょうし、源氏物語はどこから書き始められたのかが明確にわかっていません。
当時は幼い紫上が登場する「若紫」の帖しかなかった可能性や、公任がそこしか読んでいなかった可能性もあるでしょう。
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この五十日の祝いでは道長もかなりゴキゲンな感じで酔っており、彰子や倫子に対して、こんな戯れ発言をしています。
「中宮(彰子)の父として私はなかなかのものだし、私の娘として中宮もまずくない。母(倫子)も良い夫を持ったと思っているだろう」
倫子は素面だったのか、気恥ずかしさが勝ってか、席を立ってしまっています。
道長は「しまった」と思ったようで、慌てて
「部屋まで送らないと、母上がご機嫌を悪くされるからな」
と、彰子に言い訳しながら倫子を追いかけたそうです。
なんだか尻に敷かれているような感じですが、道長が出世できたのも、倫子の父・源雅信や母・藤原穆子の力が多大に影響を与えていたので、そういう一面があったのでしょう。
この前年には道長と倫子の間に末娘の嬉子が産まれていますし、プライベートでも仲良さそうですが。
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源氏物語を冊子本に
しばらく経つと、彰子が宮中に戻るための支度が始まりました。
その中で、紫式部は彰子の本づくりを手伝ったと記しています。
そこに至るまでの経緯は不明ですが、このときまでに源氏物語の豪華装丁版を作ることになっていたらしく、それを作る場面です。
源氏物語の原稿を能筆家に清書してもらい、それを製本していたとのこと。
紙を切り揃えて糸で綴じる本のことを「冊子本」といいます。
当時は「巻子本」という巻物のような形式の本が主流だったので、かなり気合が入っていたことがわかる話ですね。
また、まだ清書に出していなかった物語の原稿を道長が勝手に持っていってしまったことも書かれており、作者の手元に草稿が残ったため、紫式部はこう惜しんでいます。
「文を整えた原稿を持っていかれてしまったから、手元に残っている草稿だけが伝わって、この物語は残念な評価を受けることになるだろう」
しかし、結果は皆さんご存じの通り、源氏物語は後世に至るまで人気爆発。
その後、紫式部は一時宿下がりをし、物語や世の中、かつての友人たちに関する物思いで気を沈ませています。
同僚の大納言の君や他の女房たちと手紙をやり取りして、倫子からもこんな手紙が来ました。
「私が『ゆっくりしてきなさい』と言ったから、あなたは急いで宿下がりして長居しているのだと思っています」
紫式部はこれで気を取り直して、土御門第へ。
彰子は11月17日に内裏へ戻ることになり、紫式部はあまり仲の良くない”馬の中将”という女房と牛車に同乗することになり、ボヤいています。
「女房勤めはこういうところが嫌だ」
彼女の本音には、なんだか親近感が湧いてしまいますね。
内裏に着くと月が煌々と照っており、「顔を晒して歩かなければならないことに抵抗を感じた」とも。
旧暦の11月半ばは、現代でいえば12月下旬に差し掛かる頃です。
この日はとても冷えていたらしく、紫式部たちの局(部屋)を訪れた貴族たちが
「今夜は寒いので明日出直しましょう」
と言ってとんぼ返りしていったとか。
彰子の近辺に泥棒が!?
11月といえば新嘗祭(にいなめさい)があります。
天皇がその年に採れた穀物を神々に捧げ、自らも属する祭祀です。
彰子の還御は産後の回復を待ちつつ、新嘗祭に間に合うようスケジューリングされたのでしょう。
新嘗祭には、祭祀に伴う儀式が複数行われます。
11月20日には五節の舞姫が宮中に参入し、彰子の御座所に一条天皇や道長もやってきて密かに見物していたとか。
翌日21日は天皇の御前で行われる公式練習「御前の試み」、22日には「童女御覧」が行われています。
紫式部はここでも「女性が顔を見られることへの抵抗」を感じ、童女や舞姫たちの気持ちを慮っていたようです。
その後、賀茂の臨時祭の様子が書かれた後、紫式部はいったん宿下がりをし、年が明ける直前の12月29日に出仕しました。
すると翌日、追儺が終わって自室に帰った後、彰子の近辺に泥棒が入るという事件が起きます。
紫式部は”内匠(たくみ)の君”という女房と一緒に現場に向かい、そこで賊に衣装を剥ぎ取られた女房を二人発見しました。
そこで「弟・藤原惟規に手柄をやろう」と思い、呼びに行かせたのですが、彼は既に退出した後だったため歯噛みしています。
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すると親戚の藤原資業がやってきて、周辺の灯りをつけてまわりました。
この賊がどうなったのか?
その詳細は書かれていないのですが、幸い彰子は無事で、一条天皇からお見舞いの使者が遣わされています。
被害者の二人には、彰子から衣装が下賜され、なんとか年を越せることになりました。
宮廷の正月には「忌み言葉」といって、口に出してはいけない言葉がいくつかありました。
しかしこのときの元旦では、前日の泥棒事件で持ち切りで、忌み言葉を気にしていられなかったといいます。
儀式やタブーでがんじがらめなイメージの強い朝廷ですが、こういう人間らしさもうかがえますね。
他の女房たちをどう評価している?
終盤に入ると、同僚たちの外見や人柄に関する評価も入ってきます。
比較的褒め言葉のほうが多いですが、これは「宮中では誰に手紙や書き物を見られるかわからない」という事情も関係しているのでしょう。
この中で、彰子に仕えている身分の高い女房について、こんな評価をしています。
「仕事なのに、あまり人前に出て来ないのはいかがなものか」
「他のところの女房たちは、高貴な出自の方でも世間のやり方に従っている」
「もう少し趣が必要かと思う」
赤染衛門や和泉式部といった彰子の女房たちや、当時は宮中を去っていたと考えられる清少納言などを評した部分が一番有名でしょうか。
赤染衛門や和泉式部については他の女房たちと同様、一長一短という感じの評価をしています。
一方で清少納言については酷評しているため、主に清少納言好きな方々から「紫式部はイヤミでねちっこい人」と言われてしまっていますよね……。
清少納言も枕草子の中で特に身分の低い人物については辛辣です。
主人である定子やその親族の人々を称える部分はあるものの、同僚を褒めた部分がほとんどないので、どっちもどっちだと思うんですよね。
その後は
・紫式部の自省
・人付き合いに関する持論
・漢学に関する一条天皇と彰子とのエピソード
・出家に対する考え
などが書かれ、さらに道長と和歌のやり取りをした話が続きます。
彰子にとって第二子となる敦良親王(のちの後朱雀天皇)についても触れられていますが、あまり紙面は割かれておらず、誕生時の描写はありません。散逸してしまったのでしょうか……。
敦良親王にとって初めて迎えた寛弘七年(1010年)の正月では、さまざまな儀式の様子とともに、倫子や道長が敦成親王と敦良親王を可愛がっていた描写が入ります。
その後、紫式部日記は敦良親王の五十日の祝いの話で終わっています。
なんとも中途半端ですが、これも散逸や焼失の可能性を考えると仕方がないのかもしれません。
冒頭でも述べた通り、大河ドラマ『光る君へ』には紫式部日記から多くのネタが採用されると思われます。
どのネタがどんな風に描かれるのか、日記中にない時代にどのような影響を与えるのか、思いを馳せてみるのも一興でしょう。
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【参考】
紫式部/山本淳子『紫式部日記 現代語訳付き』(→amazon)










