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【紫式部日記】
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彰子の近辺に泥棒が!?
11月といえば新嘗祭(にいなめさい)があります。
天皇がその年に採れた穀物を神々に捧げ、自らも属する祭祀です。
彰子の還御は産後の回復を待ちつつ、新嘗祭に間に合うようスケジューリングされたのでしょう。
新嘗祭には、祭祀に伴う儀式が複数行われます。
11月20日には五節の舞姫が宮中に参入し、彰子の御座所に一条天皇や道長もやってきて密かに見物していたとか。
翌日21日は天皇の御前で行われる公式練習「御前の試み」、22日には「童女御覧」が行われています。
紫式部はここでも「女性が顔を見られることへの抵抗」を感じ、童女や舞姫たちの気持ちを慮っていたようです。
その後、賀茂の臨時祭の様子が書かれた後、紫式部はいったん宿下がりをし、年が明ける直前の12月29日に出仕しました。
すると翌日、追儺が終わって自室に帰った後、彰子の近辺に泥棒が入るという事件が起きます。
紫式部は”内匠(たくみ)の君”という女房と一緒に現場に向かい、そこで賊に衣装を剥ぎ取られた女房を二人発見しました。
そこで「弟・藤原惟規に手柄をやろう」と思い、呼びに行かせたのですが、彼は既に退出した後だったため歯噛みしています。
紫式部の弟・藤原惟規は実際どれほど出世できたのか モテる男だったのか?
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すると親戚の藤原資業がやってきて、周辺の灯りをつけてまわりました。
この賊がどうなったのか?
その詳細は書かれていないのですが、幸い彰子は無事で、一条天皇からお見舞いの使者が遣わされています。
被害者の二人には、彰子から衣装が下賜され、なんとか年を越せることになりました。
宮廷の正月には「忌み言葉」といって、口に出してはいけない言葉がいくつかありました。
しかしこのときの元旦では、前日の泥棒事件で持ち切りで、忌み言葉を気にしていられなかったといいます。
儀式やタブーでがんじがらめなイメージの強い朝廷ですが、こういう人間らしさもうかがえますね。
他の女房たちをどう評価している?
終盤に入ると、同僚たちの外見や人柄に関する評価も入ってきます。
比較的褒め言葉のほうが多いですが、これは「宮中では誰に手紙や書き物を見られるかわからない」という事情も関係しているのでしょう。
この中で、彰子に仕えている身分の高い女房について、こんな評価をしています。
「仕事なのに、あまり人前に出て来ないのはいかがなものか」
「他のところの女房たちは、高貴な出自の方でも世間のやり方に従っている」
「もう少し趣が必要かと思う」
赤染衛門や和泉式部といった彰子の女房たちや、当時は宮中を去っていたと考えられる清少納言などを評した部分が一番有名でしょうか。
赤染衛門や和泉式部については他の女房たちと同様、一長一短という感じの評価をしています。
一方で清少納言については酷評しているため、主に清少納言好きな方々から「紫式部はイヤミでねちっこい人」と言われてしまっていますよね……。
清少納言も枕草子の中で特に身分の低い人物については辛辣です。
主人である定子やその親族の人々を称える部分はあるものの、同僚を褒めた部分がほとんどないので、どっちもどっちだと思うんですよね。
その後は
・紫式部の自省
・人付き合いに関する持論
・漢学に関する一条天皇と彰子とのエピソード
・出家に対する考え
などが書かれ、さらに道長と和歌のやり取りをした話が続きます。
彰子にとって第二子となる敦良親王(のちの後朱雀天皇)についても触れられていますが、あまり紙面は割かれておらず、誕生時の描写はありません。散逸してしまったのでしょうか……。
敦良親王にとって初めて迎えた寛弘七年(1010年)の正月では、さまざまな儀式の様子とともに、倫子や道長が敦成親王と敦良親王を可愛がっていた描写が入ります。
その後、紫式部日記は敦良親王の五十日の祝いの話で終わっています。
なんとも中途半端ですが、これも散逸や焼失の可能性を考えると仕方がないのかもしれません。
冒頭でも述べた通り、大河ドラマ『光る君へ』には紫式部日記から多くのネタが採用されると思われます。
どのネタがどんな風に描かれるのか、日記中にない時代にどのような影響を与えるのか、思いを馳せてみるのも一興でしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
紫式部/山本淳子『紫式部日記 現代語訳付き』(→amazon)