平安貴族の結婚

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安

平安貴族が結婚に至るまでの不思議な手順|文を書き夜を共に過ごして三日通う

2024/03/28

大河ドラマ『光る君へ』の第12回放送で、藤原道長が源倫子へ婿入りを果たしました。

二人が結ばれるシーンをご覧になり、皆さまはどんな感想を抱いたでしょう。

「あれ? 婿入り?」と思われた方もいれば、「結婚式など、儀式の前に夜を共に過ごしちゃっていいの?」と心配された方もいるかもしれません。

なんせ当時の結婚事情は、現代人の想像する婿入りとは異なり、かつ他の文化圏とも異なる、かなり不思議な形態となっています。

いったい当時の平安貴族はどう結婚していたのか。

史実や『源氏物語』と比較しながら振り返ってみましょう。

 


藤原道長、源倫子に婿入りする

『光る君へ』における藤原道長と源倫子の結婚過程をおさらいしましょう。

摂政・藤原兼家の三男である道長は、左大臣・源雅信の一の姫である倫子との結婚を希望します

このとき道長は倫子に直接【懸想文】を送ることはせず、兼家経由で雅信に伝えます

雅信はいったん倫子の気持ちを確認すると保留

倫子は打毱見学のとき道長を見かけて恋をしていたため、この縁談を引き受けたいと父に伝え、母・穆子も賛同しました

そのあと道長が倫子のもとを訪れ、二人は同衾します

スムーズな流れのようで、当時の慣習ベースで考えればこの婚姻は成立しなかった可能性も考えられます。

そもそも打毱という珍しい機会があってこそ、倫子は道長に恋をしました。

父の雅信は倫子を目の中に入れても痛くないほど可愛がっている。倫子がそんな父に道長と結ばれたいと訴えたからこそ縁談は進みます。

しかし、道長が左大臣邸を訪れた際、母の穆子は「文も来ていない」と漏らしました。もしも彼女が「文もなしに来るとはけしからん」と却下し、道長が部屋に入ることを拒否したら成立しなかったでしょう。

倫子の意思。

雅信の娘への愛と甘さ。

穆子の判断力。

どれが欠けても成立しない過程といえます。

この夫婦は後に道長が頂点に立つことから、運命的なビッグカップル成立のように思えますが、結婚当初は互いに完全無欠とも言い切れない要素がありました。

道長は三男であり、兄に藤原道隆と藤原道兼がいる。彼らが長生きしていれば、道長の栄光はなかったかもしれない。

倫子も、入内させるべく大事に育てられながら、花山天皇は避けた結果、一条天皇の相手には年上過ぎてしまった。

そうした情勢を踏まえると、倫子はそろそろ婿を求めねばならないタイムリミットだったのです。

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では史実においては、どんな経過を持って結婚に至るのか、見てみましょう。

 


三日間通って餅を食べる

現代人からすれば、同衾した時点で結婚成立のように見えます。

しかし、当時はそうではない。

ドラマでは描かれなかった、その後の結婚に至るまでのプロセスを史実から辿ってみましょう。

◆後朝(きぬぎぬ)の文

枕を交わしたあと、相手から【後朝(きぬぎぬ)】の文が届きます。

【懸想文】はなかったものの、もしも後朝まで出していなかったら、ちょっとした騒ぎになることでしょう。

関係を持ちながらこの文が届かないとなると、弄ばれて捨てられたという意味になる。

そんなことをすれば道長は大層怒られるでしょうから、いそいそと書いて、百舌彦が届けたはず。

◆三日夜(みかよ)の餅

倫子と一夜を過ごしたあと、道長は世が明ける前に、誰にも見つからぬようそっと出て行ったはず。

仮に見つかったにせよ、周囲は見てみぬふりをします。

二日目も同じようにします。

そして三日目、二人の枕元にお膳が置かれます。きれいな食器に特別な餅が置かれ、これを食べて正式な結婚が成立するのです。

餅の準備は、新婦側の母親が行うものとされるため、藤原穆子が張り切って準備をしたことでしょう。

特別な餅として美しく飾られ、婚礼を盛り上げます。

この三日間通うというところが重要です。

それまで通っていた男君が、三日間やってこなかった。それ以来、訪れが稀になってしまった……こんな事態が起きたらば、嫡妻レースからの敗北だと悟ることにもなる。

藤原兼家の妾(しょう)であった藤原寧子(藤原道綱母)の『蜻蛉日記』には、そんな敗者の嘆きが記されています。

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まひろ(紫式部)もこの日記を読んだとされ、『源氏物語』では、光源氏の息子である夕霧が失敗しています。

親友である柏木の妻であった落葉の宮を訪れたものの、肌を重ねなかった夕霧。二日目は訪れませんでした。

しかし、そのことは周囲には伝わっておらず、落葉の宮の母である一条御息所は、娘が捨てられたのかと絶望し、ショックのあまり亡くなってしまうのでした。

 

昔の日本は妻問婚

昔の日本は【妻問婚】でした。

気の合う女性の家に男性が通い、子どもが生まれる――そんなゆるやかな結婚形態です。

男の出入りが途絶えたら【夜離れ】(よがれ)といい、結婚は自然消滅。

こうした女系を重視する婚姻は、摂関政治衰退の一因に繋がってゆきます。

庶民の【妻問婚】にせよ、貴族の婿入り=【招婿婚】にせよ、時代がくだると変わってゆきます。

特に結婚と権力が結びついていくとなると、あまりに不確定要素が大きくなってしまう。

権力者が健康で長寿を保ち、娘を作る。その娘を天皇に入内させ、寵愛を受けるように仕向け、皇子を生ませる。この皇子を長生きさせ、天皇として即位される。

当事者全員が健康!でなければ難しいのです。

当時は平均寿命が短く、病気も流行しやすく、医療も未発達。

運よく長生きでき、かつ有力貴族に生まれた者が政治を動かすというのは、偶発に頼りすぎている。

当然、誰もが長続きするわけでもなく、道長の子や孫の世代には崩れてゆくのです。

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妻問いだからこその、女性の呼び名

男が女の元に通う――この【妻問婚】の原則は、長らく上は天皇から、下は庶民まで残っていました。

男が通う女は、その女の居場所で呼ばれます。

例えば『源氏物語』での藤壺中宮、弘徽殿女御はそれぞれ彼女たちがいた場所でした。

『光る君へ』の場合を見てみましょう。

花山天皇が激しく寵愛した藤原忯子のことを、ドラマではみな「忯子」と呼びます。あれは便宜的なわかりやすさを重視したもので、実際は「弘徽殿女御」と呼ばれていたと思われます。

藤原為時の妾(しょう)である“なつめ”は、高倉に住んでいることから「高倉の女」と称されていました。

昔の日本で正妻がしばしば「北の方」と称されるのは、正妻は北に住むことが多かったからです。

戦国大名を見てみましょう。

伊達輝宗の正室である最上義姫は「於東」と称されています。この呼び方から彼女の居室は東にあったことがわかります。

広い邸宅に複数の女性を配置し、方角や部屋の名前で呼ぶか。

はたまた女の自宅に通い、その住所で呼ぶか。

そうした違いはあれども、女性が場所で呼ばれることが日本では通じていました。

ちなみに隣の中国や韓国の場合、実家の姓で呼ばれます。

たとえば楊貴妃の場合、楊氏の貴妃(皇帝の妃の位)という意味で、その名は楊玉環とされます。

基本的に同姓では通婚しないため(【同姓不婚】)、そうした文化圏からすると、日本は藤原が多すぎるどころか、藤原同士で結婚する平安貴族はどういうことなのかと困惑したことでしょう。

中国ではこの慣習が清末まで、韓国ではなんと1999年まで法で禁止が定められていました。

 

平安時代の結婚は愛や相性よりも資産

源雅信の邸に通う道長は、貴賓にあふれる手つきで御簾をあげました。

あの仕草を見ていれば、彼がまひろを【北の方】にできなった理由が見えてきます。

藤原為時の家はあまりに粗末です。

まくりあげる御簾もろくにない。そこへ道長が通うにせよ、豪華な【三日夜の餅】を準備するところすら想像できません。

また、同じ回ではまひろの婿として、藤原実資があげられます。藤原宣孝が進めようとして、その理由も説明されました。

実資が北の方を失ったこと。まひろは賢く、実資がその知性を気に入りそうなこと。まひろは見た目も麗しいと劇中で言及されており、適齢期でもあります。

それでも実資は「鼻くそのような女との縁談」と日記に記し、鼻にも引っ掛けておりません。

史実において、実資がまひろ(紫式部)と気が合ったとみなせなくもありません。

彼の日記である『小右記』では、藤原彰子に仕える気の合う女房がよく出てきます。この女房は紫式部と推測できます。

「賢人右府」と称されるほど聡明であった実資の信頼を得るほど、紫式部は賢かったと見なせるんですね。

家柄の時点で「鼻くそ」扱いされたまひろではあるものの、知性のレベルで釣り合うとこの時点で示されていることは、伏線にも思えます。

突拍子もないまひろと実資の縁談話から浮かんでくることもあります。

一件、コミカルなシーンのようで、貴族の結婚が資産で決まることがよくわかる場面と言えるでしょう。

実資に高そうな巻物を贈る宣孝は、身分が低くとも十分な資産があることもわかります。妾(しょう)も複数いるようで、為時よりはるかにうまい世渡りをしている。

道長の姉である藤原詮子は、ことのほか弟の道長を可愛がっています。

その愛ゆえに、弟に対して源明子をしきりと勧めてきます。道長の政治力をあげることを狙っているのです。

道長自身が源雅信の家に婿入りすることを選んだこと。

詮子が源明子を勧めてくること。

どちらも兄である道隆や道兼相手にリードしたい動きと見ることもできます。

道隆の嫡妻である高階貴子はさほど身分が高くありません。愛情か、彼女の才知を重んじた道隆ならではの選択と言える。

実際、貴子の知性とセンスは娘の藤原定子に受け継がれることにより、道隆の選択の正しさが現れているといえるでしょう。

一方で道長は、もっと直接的な政治力と資産を選んだとも取れます。

『光る君へ』では、道隆と道長の間にいる道兼の妻妾について言及がありません。彼はそうした女系の取り込みに失敗しているともわかる描き方です。

親の意向あっての結婚とはいえ、本人の選択もある。選び方次第で未来のことまで決まりかねません。

 

出家で男女の道を断つ

『光る君へ』には若くして譲位した天皇も出てきました。

譲位をすれば、内裏から出ていかねばならず、妻たちもそうなります。

この時代、男女の通を絶つ手段として出家がありました。

時代がくだると破戒僧が増え、妻帯も許された仏僧ではあるものの、当時は色欲を断つことに他なりません。

出家時点で本来そうなるはずなのに、できない人も中にはいます。

花山院です。

好色でありながら二十歳にならぬうちに出家して、真面目に仏道に邁進するかというとそうはなりません。

そのせいで、通っていた女のもとで事件が起きてしまいます。藤原伊周の通う女君と同じ邸にいる女君を愛していたため、誤解を招き、殺傷事件に発展してしまうのです。

藤原伊周の弟である藤原隆家もその場にいて、なんと花山院は袖を矢で射抜かれてしまったのでした。

出家の身でありながら色恋でトラブルというのは、さしもの花山院も気まずい。

そこで隠蔽をはかるものの、藤原道長は見逃さず、道隆の息子たちである伊周と隆家を失脚させました。

この事件を【長徳の変】と言います。

『源氏物語』でも出家は重要な要素です。

恋に疲れた人々は出家を望むもの。光源氏は女君が出家を望むと、拒否を感じて傷つくものでした。

そして自身も出家を望みつつ、最愛の紫の上の出家だけは断固阻止する光源氏は、なかなか虚しいものがあります。

 

『源氏物語』が描く結婚格差の残酷

『源氏物語』ではさまざまな男女の関係が出てきます。

なまじ名作だけに平安時代像を形成するうえで重要な作品ですが、イレギュラーな関係が結ばれていることには注意すべきかもしれません。

光源氏の両親である桐壺帝と桐壺更衣は、異例の関係とされます。実家が強くない桐壺更衣の寵愛は例外的だとされているのです。

そして生まれた光源氏にせよ、最愛の女君といえる藤壺は父の中宮です。

紫の上は父を失っており、光源氏は祖母の北山の尼君から後見を託されていました。

光源氏と紫の上の婚儀はかなり強引に思えるほどですが、紫の上を庇護していた祖母の意思あってのものと言えます。紫の上は実家がないため、【三日夜の餅】は光源氏側で用意しています。

このことが物語の後半において、暗い影を落とします。

四十を過ぎた光源氏に、兄の朱雀院が三の姫である女三の宮の婿になって欲しいと頼み込んできます。光源氏はあまり乗り気でなかったものの、相手が藤壺の姪であることを知り、結局は引き受けます。

朱雀院の姫であるだけに、女三の宮は立派な婚儀を経て、光源氏の妻となりました。

光源氏は女三の宮の幼さにうんざりしてしまい、紫の上の素晴らしさを改めて認識します。しかし、そんな愛情では超えられない壁がありました。

紫の上は、どうしても見劣りする経緯で光源氏の妻になっております。

後ろ盾もありません。愛があっても劣る境遇なのです。そのことを彼女自身はどうすることもできません。

結局、紫の上は病に倒れます。最愛の人が倒れ、光源氏が看病しているうちに、女三の宮の元に柏木が通い、不義の子が腹に宿ってしまった。

男子を産むも、その罪の意識に苦しんだ女三の宮は出家を遂げてしまうのでした。

位人臣を極め、六条院で何一つとして不自由のない暮らしを送っていた光源氏。

彼がその栄華を失ってしまったのは、なぜなのか。

藤壺の面影を求めた報い。その藤壺と通じ子まで成した報いが己の身に祟ったこと。いくつもの因果応報の中に、紫の上と女三の宮の格差も含まれています。

「宇治十帖」では、女君に後ろ盾がないことが物語に影を落とします。

宇治を訪れた薫は、宇治八の宮の娘である大君と中君を垣間見ます。薫は姉である大君に恋焦がれるものの、大君は愛を拒みました。

親を亡くし後ろ盾がないため、姉である自分が妹を後見し、結婚させたい。そう思い、身を引き、結果的に亡くなってしまいます。

中の君は薫の親友であり恋のライバルとも言える匂宮の妻となりました。大君の面影を求める薫は中君に迫るも、拒まれてしまいました。中君は大君によく似た異母妹の浮舟を薫に紹介し、話が進んでいきます。

この物語は、大君と中君に後ろ盾さえあれば、こじれずに済んだといえる恋なのです。

紫式部があえてこうした婚礼格差を描くことで、これを読んだ日本人はその苦さを噛み締めることとなりました。

もしも光源氏と紫の上が、ずっと幸せなまま暮らしていたら?

当時の婚礼が持っていた構造の矛盾に気づくことはできなかったかもしれません。

当時の人にとって婚礼とは何か。甘さだけではなく、苦さをも伝えてくる『源氏物語』。紫式部が何を経験し見たからそんな描写をするようになったのか。

『光る君へ』はそこに挑んでくるのでしょう。


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【参考文献】
高木和子『源氏物語を読む』(→amazon
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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