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【平安貴族の結婚事情】
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昔の日本は妻問婚
昔の日本は【妻問婚】でした。
気の合う女性の家に男性が通い、子どもが生まれる――そんなゆるやかな結婚形態です。
男の出入りが途絶えたら【夜離れ】(よがれ)といい、結婚は自然消滅。
こうした女系を重視する婚姻は、摂関政治衰退の一因に繋がってゆきます。
庶民の【妻問婚】にせよ、貴族の婿入り=【招婿婚】にせよ、時代がくだると変わってゆきます。
特に結婚と権力が結びついていくとなると、あまりに不確定要素が大きくなってしまう。
権力者が健康で長寿を保ち、娘を作る。その娘を天皇に入内させ、寵愛を受けるように仕向け、皇子を生ませる。この皇子を長生きさせ、天皇として即位される。
当事者全員が健康!でなければ難しいのです。
当時は平均寿命が短く、病気も流行しやすく、医療も未発達。
運よく長生きでき、かつ有力貴族に生まれた者が政治を動かすというのは、偶発に頼りすぎている。
当然、誰もが長続きするわけでもなく、道長の子や孫の世代には崩れてゆくのです。
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妻問いだからこその、女性の呼び名
男が女の元に通う――この【妻問婚】の原則は、長らく上は天皇から、下は庶民まで残っていました。
男が通う女は、その女の居場所で呼ばれます。
例えば『源氏物語』での藤壺中宮、弘徽殿女御はそれぞれ彼女たちがいた場所でした。
『光る君へ』の場合を見てみましょう。
花山天皇が激しく寵愛した藤原忯子のことを、ドラマではみな「忯子」と呼びます。あれは便宜的なわかりやすさを重視したもので、実際は「弘徽殿女御」と呼ばれていたと思われます。
藤原為時の妾(しょう)である“なつめ”は、高倉に住んでいることから「高倉の女」と称されていました。
昔の日本で正妻がしばしば「北の方」と称されるのは、正妻は北に住むことが多かったからです。
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戦国大名を見てみましょう。
伊達輝宗の正室である最上義姫は「於東」と称されています。この呼び方から彼女の居室は東にあったことがわかります。
広い邸宅に複数の女性を配置し、方角や部屋の名前で呼ぶか。
はたまた女の自宅に通い、その住所で呼ぶか。
そうした違いはあれども、女性が場所で呼ばれることが日本では通じていました。
ちなみに隣の中国や韓国の場合、実家の姓で呼ばれます。
たとえば楊貴妃の場合、楊氏の貴妃(皇帝の妃の位)という意味で、その名は楊玉環とされます。
基本的に同姓では通婚しないため(【同姓不婚】)、そうした文化圏からすると、日本は藤原が多すぎるどころか、藤原同士で結婚する平安貴族はどういうことなのかと困惑したことでしょう。
中国ではこの慣習が清末まで、韓国ではなんと1999年まで法で禁止が定められていました。
平安時代の結婚は愛や相性よりも資産
源雅信の邸に通う道長は、貴賓にあふれる手つきで御簾をあげました。
あの仕草を見ていれば、彼がまひろを【北の方】にできなった理由が見えてきます。
藤原為時の家はあまりに粗末です。
まくりあげる御簾もろくにない。そこへ道長が通うにせよ、豪華な【三日夜の餅】を準備するところすら想像できません。
また、同じ回ではまひろの婿として、藤原実資があげられます。藤原宣孝が進めようとして、その理由も説明されました。
実資が北の方を失ったこと。まひろは賢く、実資がその知性を気に入りそうなこと。まひろは見た目も麗しいと劇中で言及されており、適齢期でもあります。
それでも実資は「鼻くそのような女との縁談」と日記に記し、鼻にも引っ掛けておりません。
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史実において、実資がまひろ(紫式部)と気が合ったとみなせなくもありません。
彼の日記である『小右記』では、藤原彰子に仕える気の合う女房がよく出てきます。この女房は紫式部と推測できます。
「賢人右府」と称されるほど聡明であった実資の信頼を得るほど、紫式部は賢かったと見なせるんですね。
家柄の時点で「鼻くそ」扱いされたまひろではあるものの、知性のレベルで釣り合うとこの時点で示されていることは、伏線にも思えます。
突拍子もないまひろと実資の縁談話から浮かんでくることもあります。
一件、コミカルなシーンのようで、貴族の結婚が資産で決まることがよくわかる場面と言えるでしょう。
実資に高そうな巻物を贈る宣孝は、身分が低くとも十分な資産があることもわかります。妾(しょう)も複数いるようで、為時よりはるかにうまい世渡りをしている。
道長の姉である藤原詮子は、ことのほか弟の道長を可愛がっています。
その愛ゆえに、弟に対して源明子をしきりと勧めてきます。道長の政治力をあげることを狙っているのです。
道長自身が源雅信の家に婿入りすることを選んだこと。
詮子が源明子を勧めてくること。
どちらも兄である道隆や道兼相手にリードしたい動きと見ることもできます。
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道隆の嫡妻である高階貴子はさほど身分が高くありません。愛情か、彼女の才知を重んじた道隆ならではの選択と言える。
実際、貴子の知性とセンスは娘の藤原定子に受け継がれることにより、道隆の選択の正しさが現れているといえるでしょう。
一方で道長は、もっと直接的な政治力と資産を選んだとも取れます。
『光る君へ』では、道隆と道長の間にいる道兼の妻妾について言及がありません。彼はそうした女系の取り込みに失敗しているともわかる描き方です。
親の意向あっての結婚とはいえ、本人の選択もある。選び方次第で未来のことまで決まりかねません。
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