2023年1月に始まると瞬く間に人気を博し、3月中旬で惜しまれながらシーズン1が終わってしまったNHKドラマ10『大奥』。
江戸時代という長い歴史を通して、人々の暮らしや思想がどう変わっていったのか?
ということを描く、非常に斬新な作品でした。
長丁場の大河ドラマでも、せいぜい一人の生涯を追うぐらいなのに、『大奥』では秋からのシーズン2を含めて家光から幕末までのロングスパンという、非常に挑戦的な試みでもありました。
そこで本稿で注目したいのが、シーズン1で描かれた家光~吉宗将軍期の時代背景です。
史実における八代までの治世は、一体どんな社会であり、人々はどんな考えで生きていたのか?
ドラマと史実の相違点なども見ながら、振り返ってみましょう。
家光時代:大奥と江戸時代のはじまり
徳川家光の時代は、まだ戦国時代の気風が残っている時代と言えます。
苛烈なだけに思えた春日局は、乱世に逆戻りしてしまうことを恐れるあまり、家光を苦しめてきた。
そんな春日局が大奥を作り上げていく過程が、家光編を貫くテーマです。
家光の忠実な家臣であった稲葉正勝は、家光の死と共に殉死を遂げていました。
武士ならばさもありなん――と思われるかもしれませんが、殉死は江戸時代初期だけのことであり、次第に廃れてゆきます。
まだまだ人の気性も荒々しく、正面切った暴力や殺傷沙汰が出てくる時代であり、殉死は“忠義の華”でもありました。
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『源氏物語』雅な教養を身につける
家光編では『源氏物語』と猫が重要な役割を果たしました。
日本を代表する古典文学である『源氏物語』は、時代と共に普及。
例えば
『源氏物語』って尊い! あー、欲しくてたまらない!
そう熱狂的な熱量をたぎらせていたのが、『更級日記』の作者・菅原孝標女(1008~1059)です。
時代がくだるにつれて流通量も増え、戦国時代ともなると、大名だろうと『源氏物語』は一般教養でした。
題材にしたアクセサリ、屏風、和歌、連歌……ともかく知らねば話にならないほど。
織田 信長が上杉 謙信に『源氏物語』屏風を贈ったことから、謙信は乙女チックだの、実は女性だの言われます。
さにあらず。むしろ戦国大名で『源氏物語』を知らないというのは、恥ずかしいことでした。
どれだけ夢中になるのか差はあるでしょうが、大まかなプロットや、登場人物の性格は把握していたのです。だからこそ、モチーフのデザインを見れば即座に判別できるのです。
鎌倉武士のころから進化した教養が、当時の武士にはありました。
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家光編では、家光は『源氏物語』を読んだことすらなく、有功との出会いを通して読むこととなります。
春日局はこのことに、満足感を覚えています。町人として育てられた家光は、教養を身につけることができなかったことが伝わってきます。
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『源氏物語』といえば、愛し合う心を描いた作品です。それを読めば教養が身につくだけではなく、愛も学べると考えられたのでしょう。
出来の悪いドラマでは、戦国武将がやたらと“雑”に振る舞うことがあります。
しかし、彼らの教養が『源氏物語』であったことを考えれば、そこまで無神経なことをする前に「これはまずいな……」と自制することは考えられます。
光源氏以下、『源氏物語』の男たちもなかなか無頓着です。とはいえ、紫式部は細やかな筆致で傷つく女性も描いていますから。
そんな『源氏物語』から「若紫」とつけられた白猫が、家光と有功を結びつける役割を果たします。
それまで綱でつながれていた猫は、江戸時代初期から放し飼いが解放されました。今以上に貴重なペットといえます。
玉栄この若紫を殺してしまったことを、気に病んでいることがわかります。殺生に対する意識の変容がみてとれます。
衣装や髪型も江戸時代初期です。まだ女性も髪を結い上げておりませんでした。
◆家光編まとめ
親といえる人物:春日局。家光を大奥に閉じ込めたものの、彼女を救い守ろうともしていた
側近:稲葉正勝。殉死により忠義を示す。家光の身代わりととつとめ、主君と一心同体だという認識があった
家光の女性としての悩み:性暴力によるトラウマ。自己決定権の欠如。将軍となることを宣言することで示す
最愛の人であり大奥総取締:万里小路有功。傷ついた家光を受け止め、心を癒す
綱吉時代:天下泰平と爛熟
家光と玉栄の娘であり、第五代将軍となった徳川綱吉。
経済は爛熟し、気ままな女将軍として君臨しているように思えます。
しかし、彼女にも悩みと課題が大きくのしかかります。
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綱吉の【文治主義】が成熟す
昨今、こんな誤解がよく見受けられます。
儒教規範に縛られていたのは中国大陸や朝鮮半島であり、日本はそうではない――。
これは完全な誤りで、日本では鎌倉時代から戦国時代まで主に禅僧を通して学ばれ、道徳規範として根付いていました。
その代表例が、織田 信長です。
信長というと革命的で、前例にとらわれない像が強調されています。
しかし、彼なりに天意に逆らえば罰が当たることを信じており、ルールを守ることは意識していたのです。
一例として挙げるのが、信長がつけた地名「岐阜」でしょう。
岐阜は儒教の聖地である「岐山」と「曲阜」を由来としているという説があります。
花押も儒教の聖獣である麒麟をあらわす「麟」であり、信長も儒教を信奉していたことがうかがえます。
徳川家康は、儒学者である林羅山を重用しました。江戸幕府の掲げる教養として、儒教が採択されたといえる局面です。
徳川綱吉もまた教養に長けた人物でした。
自ら漢籍を読みこなし、語り合っていたドラマでのシーンは、綱吉の実像を反映させています。
『論語』を読みこなし、その教えに心惹かれているのです。
儒教には学派があり、もっとも有名なのが朱子学と陽明学でしょう。
南宋の朱熹が確率した朱子学は、孔子だけでなく、孟子も重視します。孔孟の教えとは、朱子学のこと。綱吉はこの教えをよく引用していました。
その綱吉が、右衛門佐と初めて出会った際、彼が孔子と孟子を引用していました。
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その様子を見て「曲者じゃ」と彼女がニヤリと微笑んだのは、相手の教養の高さと、朱子学教養を見抜いたのでしょう。
この男ならば、自分の気持ちを理解できるかもしれない。そんな期待感があったと思えます。
右衛門佐はその後、漢籍講義を通して、綱吉と心を通わせてゆきます。
綱吉がいきいきとしていた頃は、トリッキーな政治規範ともなり得る『韓非子』を読んでいました。
この『韓非子』において、右衛門佐と綱吉が用いるテキストが異なることから、右衛門佐の嘘が発覚する展開も。
なかなかひねりのある『韓非子』から判明することで、複雑怪奇な騙し合いの印象が強まっています。
『韓非子』を通して見えてくるのは、どこかねじれていて、素直になりきれない、高度な騙し合いの世界でした。
ありのままに生きてもいい
そんな綱吉は、一人娘であった松姫を亡くすことで、深い悲しみに落ちてゆきます。
右衛門佐は、そこで孔孟の教えでもなく、老荘の教えを読ませるようになる。
老荘の教えとは、道教の経典にもなりました。
国家の規範となり、人々を導く道徳規範とは異なり、自由を求める心を勇気付ける教えです。
儒教道徳は中国の歴史を縛ってきましたが、同時にそこから抜け出したい人々の求める思想として、老荘の教えがあったのです。
世継ぎを残せぬと嘆く綱吉に、生きることの意味を教える右衛門佐。
二人が老荘思想にたどり着いたのは、思想史からみても当然のことと言えました。
老荘思想は、中国の思想の中でも屈指の優しさがあります。
なんとなく疲れた――そんな時にあるがままの姿を肯定し、自分にも周囲にも優しくなれる教えです。
その境地に辿り着けた綱吉と右衛門佐は幸せでした。
綱吉は自分を過小評価している?
毒親である父・桂昌院に苦しめられ、引きずられるように生きていた綱吉。
綱吉の悪政代表とされてきた【生類憐れみの令】――しかし、これは日本人の道徳観を変えた側面もあります。
それまでは死の穢れをおそれるあまり、死にかけた人々を放置し、追い出すことすらあった日本。そうした行為を取り締まり、生命倫理を向上させた側面もあったのです。
人々が血を見ることすら嫌になれば、乱世に戻ることは遠ざかります。
それなのに、自分は何も成し遂げられないと嘆いた綱吉は、かなり生真面目な性格です。理想像が高すぎたのでしょう。
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綱吉は、時代が爛熟した結果、理想が追い付かない悲劇がありました。
女の自分でも学ことはできるし、教養は褒められる。それと同時に女子力、それに子作りも強制される……そうあまりに重い要求に心が折れてしまった綱吉は、現代的な女性ともいえます。
◆綱吉編まとめ
毒となる:桂昌院。綱吉を女としてだけみて、学問にいい顔はしない。子を産むことばかりを要求し、娘の悩みを聞こうとしない
側近:柳沢吉保。深い情愛と忠義が一体となった、武士道の体現者。溢れる知性も主君と共通している
綱吉の女性としての悩み:低い自己評価と、高すぎる目標。自己決定権の欠如。父の束縛を解くことで癒される
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吉宗編:東洋近世国家の頂点へ
どこか苦い結末を迎えた家光編と綱吉編に対し、吉宗編は爽快感とコメディタッチの描き方も発揮されます。
実際に吉宗時代は、日本史の近世が完成した時代ともいえます。
倫理観、教養、センスが庶民まで行き渡り、日本という国の形が固まったとも言えるのです。
しかし、ひとつの時代の完成と、次の時代への始まりは同時並行して起こります。
武士の誇りを取り戻す
今一度振り返りまして、【生類憐れみの令】は、なぜあれほど評判が悪いのか?
実は、武士の尊厳の問題でもあります。
単にコストがかかるだけでなく、犬を追いかけて捕まえる武士が町人から笑われるとなれば、彼らのプライドは大きく傷つきます。
特権である鷹狩りを禁じたことも、武士にとっては面白くない話。
吉宗は、綱吉時代には途絶えた鷹狩りを復活させ、家重のこともたびたび誘いました。
このことには、実は矛盾点があります。鷹狩りには莫大な費用がかかるのです。
「御巣鷹山」という地名があります。
日航機墜落事故のあった群馬県だけでなく、当時は鷹狩りに使う巣があった山をさしました。
倹約第一の吉宗が、このように莫大な金がかかる贅沢なことを復活させたのです。
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これは彼なりの心身を鍛えたいという、武士としての誇りがそうさせていました。
家康回帰をめざす吉宗にとって、綱吉らの【文治主義】は生ぬるく思えたのです。
ドラマでは吉宗が颯爽と馬に跨り、浜辺を駆け抜けていましたが、武勇復活をめざす彼女らしい姿といえるでしょう。
民にまで儒教を浸透させる
綱吉は、孔孟の教えを学問として学び、概念を取り入れていました。
一方で吉宗は、実学志向の人物です。
だからこそドラマでは、娘である徳川宗武が杜甫『絶句』をスラスラと暗唱した場面で「自分では覚えられない」とあっけらかんとしていた。
詩としての素晴らしさはわかるけれども、そんなものを覚えても役には立たないと消極的なのです。
これは吉宗政治の特徴を示しているともいえます。
綱吉が学問として極める一方、吉宗は民衆に至るまで浸透させることを目指しました。
吉宗の時代に「孝子長五郎」という人物がおります。
彼の功績は「実に親孝行」だったことで、母への様子が評判となり、代官の耳にも入ると、大岡忠相を通して吉宗の耳にまで入り、大々的に顕彰されたのです。
米や反物を賜り、さらに年貢まで免除されたのですから、大したことです。
今でも彼の顕彰碑や墓は残されています。
◆ 孝子長五郎(こうしちょうごろう)の墓(→link)
反対に、親を虐待しているような不届ものは、罰を与えられます。
学問として極めるのではなく、民衆にも広め、社会規範を向上させることが、吉宗の【享保の改革】の意義でした。
こうした政策には、前例があります。
明では「里甲制」により、民衆が統治されていました。そんな民衆に対し、洪武帝は「六諭」を布告します。
・父母に孝行を尽くしましょう
・年長者は尊敬しましょう
・近所の人とは仲良くしましょう
・子孫は教え、導きましょう
・自分の仕事をがんばりましょう
・非行をしてはなりません
単純明快な倫理であり、民衆にも根付いてゆきました。
清代では康熙帝が「聖諭広訓」を発布します。これも儒教道徳を説くものです。月に2度読み上げられ、民衆に浸透する。
時は流れ、海を越え、享保4年(1719年)――吉宗は「六諭」の解説書である『六諭衍義』を目にします。薩摩藩主・島津吉貴から献上されたものです。
薩摩藩と接する琉球では、この時点で既に『六諭衍義』が普及しておりました。
吉宗はブレーンにこの本を託します。室鳩巣が和訳し、『六諭衍義大意』となる。荻生徂徠に訓訳(書き下し)をさせる。
そして江戸町奉行の大岡忠相が、江戸の著名な手習師匠たちに与える。
こうして寺子屋でも『六諭衍義大意』を習うこととなったのです。
江戸っ子たちは、堅苦しい儒学者や師匠を川柳でからかいながらも、儒学に親しんでゆきました。
それだけに江戸時代の刑罰や制度は、儒教規範が反映されています。
同じ殺人でも、親殺しや主人殺しの方が重くなる。仇討ちも、目上の人でなければ公式に認められない。子が親の仇討ちをするのはよろしくとも、親が子の仇討ちをすることは認められないのです。
この儒教規範は、江戸時代が終わったからといって、人々の生活から抜けるはずもありません。
『教育勅語』の狙いとして、西洋道徳の影響で影が薄れた儒教規範の再浸透がありましたが、その際、明清まで遡り、こうした書籍を参照しました。
親殺しが厳罰とされなくなるのは、昭和48年(1973年)の「尊属殺重罰規定違憲判決」まで待たねばならない。
統治を円滑にするための儒教規範は、吉宗によって根付きます。
教養を重視する流れはこのあとも続き、徳川家重の代にあたる宝暦年間からは日本全国において藩校が創建されてゆきました。
率先垂範、先憂後楽
吉宗が食事をとる場面があります。質素で、シンプルなものです。吉宗は着物すら木綿で、ワンポイントで刺繍が入っているだけのものでした。
男女逆転していても、吉宗の質素倹約ぶりは史実に即しています。
吉宗は徳川家康への回帰を掲げ、自らが手本となることで、民衆までの引き締めを狙いました。
「まァ、上様も、うまい飯は食ってねえからな」
江戸っ子たちはこう思うことで、不満は抑制されていたのです。
当時の政治規範として「先憂後楽」があります。
先んじて憂い、皆が楽しめるようになったら自分もそうする。そんなストイックな政治理念があれば、民衆の支持も得られます。
この将軍自らが規範となる姿勢は、後継者選びにも表れています。長幼の序を守り、家重を指名することで、儒教規範を示したのです。
ただし、それも良し悪しはあります。
吉宗のライバルとして有名なのは、尾張家の徳川宗春です。
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彼は質素倹約をあてつけるように、派手で華やかな統治を実現しようとしました。
その結果、失脚してしまい、偉大なる名君・吉宗と比較されるために、後世では厳しい評価が与えられた人物となります。
しかし経済という点からみれば、華やかな暮らしは金の流れを活性化させることは確か。
吉宗はそういうセンスがないという問題提起であれば、その通りです。
そんなド派手セレブな宗春を誰が演じたらよかったか?と、想像しつつ、経済について思いを馳せてみてもよいかもしれません。
民の生活は向上したが
ドラマでは、オリジナルの疫病である赤面疱瘡との対策がクローズアップされていました。
赤面疱瘡そのものはなくとも、江戸時代には幾度もおそろしい疫病が流行しています。
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こうした疫病は、医療体制の確立や衣食住環境の改善で抑制できるため、吉宗の改革により、生活の底上げは実現できていました。
その顕著な例が朝鮮人参の国産化成功でしょう。
中国大陸や朝鮮半島のごく一部に自生するだけであった朝鮮人参は、その特性のため輸入超過――これを克服すべく、吉宗は栽培に取り組んだのです。
ただの薬草栽培だけではありません。各地に栽培を教えるとともに、政治体制の確認も行います。
民衆が医療へアクセスできるかどうか、確認しつつ底上げをしたのです。貧しい民でも医療から取りこぼさないことに、吉宗は取り組んだのでした。
こうした民衆の生活向上のあとは、時代劇にも残されています。
吉宗編の主要人物は、時代劇でお馴染みです。
それだけ善政を行ったがゆえに、フィクションで取り上げられた結果といえます。
ただし、限界までも描かれています。
近世の完成は、それでも限界がある
吉宗時代は全盛期であり、上り詰めた時代です。
新田開発も頭打ち。人口増大に食糧生産が追いつかない。悪天候の影響を受けやすい米を経済の指標としていると、年貢の負担が大きくなってしまう。
米本位制からの脱却が必須となります。
赤面疱瘡にせよ、限界に到達しました。
薬草採取、感染の予防、解剖による症状の把握。ここまではできました。さらに一歩踏み込んだ予防および治療が残されます。
東洋医学ではない、西洋医学が必要です。
その入り口を開ける役目を、吉宗と家重が担っています。
蘭学を解禁すること。
サツマイモ栽培を広め、飢饉対策とすること。
家重の意を汲んだ田沼意次に、経済対策の案を託すこと。
近世から近代へ、時代はシーズン2へ向かうのです。
◆吉宗編まとめ
親:特になし
側近:加納久通。吉宗を名君の器と見定め、将軍とするために謀殺も辞さない。穏やかなようで断固たる決意を秘めた忠臣
吉宗の女性としての悩み:自覚しているかどうかわかりにくいが、情緒を理解し、優しく振る舞う「女性らしさ」の欠如はある
最愛の人である大奥総取締:杉下。恋愛感情ではなく、側近から家族愛へ。タイトルにある水野祐之進ではない
時代とともに変わるフェミニズム
ドラマ『大奥』は江戸時代をなぞるようで、フェミニズムの流れを辿るようにも思えます。
◆家光時代:第一波フェミニズム 1840年代〜1920年代
はじめに断っておきますと、現代のフェミニズムの流れは英語圏、英米を起点とするため、それ以外の地域を無視することもしばしばあります。
ともあれ、まとめますと、第一波フェミニズムとは、女にも市民権があることを確認する運動です。
参政権獲得がひとつも目標でした。
家光編のフィナーレは、
「誰かわしが女将軍になることに異存はあるかえ!」
と宣言する場面です。
女にだって、政治決定権がある――そこが彼女の到達点でした。
◆綱吉編:第二波フェミニズム 1950年代~
1950年代後半からアメリカで起こり、70年代前半に最盛期を迎えたとされます。
特徴としては、女性らしさへの押し付けの反発があり、この時代は冷戦時代と重なります。
第二次世界大戦が終結し、冷戦を迎えると、東側の男女平等に対して、西側はあたたかい家庭像をロールモデルとしました。
マイホーム、マイカー、家事育児と夫の愛を求める専業主婦――これぞ西側の理想だ、あんな化粧もしない女どもが働いている東側は哀れなもんだ――と、すり込んでいったのです。
当時の東側女性については「かわいげがなくて化粧もしていない器量の悪い女」というステレオタイプがありました。
こうした東側に対抗する西側女性ロールモデルとして、知性が否定され、愛くるしさと美しさを求められる動きが起きてくるとどうなるか。
例えば、戦時中に暗号解読に活躍した女性たちは、その活躍がなかったことにされ、家庭の主婦となるよう社会に押し付けられました。
それに対して、知性を求め、才能を発揮し、女らしさに対抗する運動が第二波フェミニズムです。
学問が好きな綱吉は、父から学問をすると器量が悪くなると言われていました。いくら知識を身につけても誉められず、女としての美しさや愛だけを求められることが内心は不満だったのです。
だからこそ、彼女は知性を磨き合う右衛門佐を求めた。
そんな綱吉編の解放は、右衛門佐の台詞に現れています。この言葉を聞いた後、綱吉は、父の前で打ち掛けを脱ぎ捨てて解放されます。
「上様、生きるということは、女と男ということは、ただ女の腹に種をつけ、子孫を残し、家の血を継いでいくだけのことではありますまい!」
女性性の過度な押し付けから解き放たれる――そんな象徴的な場面でした。
◆吉宗編:第三波フェミニズム 1990年代〜
1980年代の終わり頃、フェミニズムは時代遅れとされました。
女の権利は十分に保証されたではないか――そう思われていたのです。
でも、本当にそういうものなのか? 母親世代の「女とはこうあらねば」という押し付けも不満を生じさせます。
専業主婦もダメだけど、女としての役割は残されているような。そういう押し付け、型にはめることがともかく窮屈だ!
そんな中、アメリカやイギリスのガールズバンドが、自分らしさを求める運動を始めると、当時のポップカルチャーとも結びつき、ムーブメントとして広まってゆきました。
象徴的な言葉が「ガールパワー」。
女性の中にある、独立独歩精神を示しています。
吉宗は、少女時代から既存の女らしさからぶっ飛んだ規格外の存在でした。
どうなったらああなるのかと、綱吉は驚いていたほど。まさにこの上様はガールパワーの持ち主ではないでしょうか。
とはいえ、それが情緒にあまりに無頓着であると、藤波が諌めにかかります。
吉宗は自由に見えます。我が子の父も無造作に選び、さっさと政務の合間に世継ぎを作ってしまう。
家光と綱吉と比べると、いきいきと解放されているように思えます。
そうは言っても、ぶっちゃけすぎれば、それはそれで課題が残ることが示されている。
吉宗は自由であるし、ロマンチックな恋愛から解放されてもいます。
彼女はそれで十分幸せそうではあるけれども、皆がそうできないことは家重を見ていると伝わってきます。
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【参考文献】
清水晶子『フェミニズムってなんですか?』(→amazon)
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