大奥作品で徳川家光が描かれるときに欠かせない定番の人物がいます。
お万の方(栄光院)です。
それまで心を閉ざしていた家光が、彼女を相手に初めて愛に目覚める――そんな劇的なヒロインとして描かれるのですが、史実におけるお万の方は家光の子供を産んでいません。
にもかかわらず、その存在感は他の女性よりはるかに大きい。
一体なぜなのか?
男女逆転版のNHKドラマ10『大奥』では、福士蒼汰さん演じる万里小路有功(までのこうじありこと)として登場し、話題となった。

徳川家光/Wikipediaより引用
1711年11月20日(正徳元年10月11日)は彼女の命日――お万の方の生涯を史実から振り返ってみましょう。
20歳も若い美人尼僧に惚れた家光
お万の方は寛永元年(1624年)の生まれ。
父は公家の六条有純で、彼女の名は満子となります。
家光が慶長9年(1604年)生まれですから、ちょうど20歳差ですね。
実は彼女、元々は尼僧でした。
寛永13年(1636年)、満13歳で伊勢宇治郷にある尼寺・慶光院に入り、その三年後、十七代院主となっていたのです。
慶光院では、名門公卿の姫君が院主となる伝統がありました。
朝廷や将軍家の祈祷も行う由緒ある寺院であり、寛永16年(1639年)3月、その院主として彼女が江戸城にまで挨拶へ訪れます。
そのときのことでした。
若き尼僧の姿を家光が目にとめたと、乳母である春日局の耳に入ったのです。

春日局/Wikipediaより引用
どうやら家光は、お万の方の美しい容姿だけでなく、「尼僧姿」というところにも心惹かれたと噂されたとか。
春日局にしても、もともと側室を用意して跡継ぎを確保したがっていたこともあってか、慶光院の還俗に尽力し、ついに側室とさせます。
還俗したお万の方の誕生でした。
なお、以下の記事のように、徳川家康にも同名の側室がいますのでご注意ください。
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17歳で54歳の家康に嫁いだお万の方(養珠院)の生涯|死装束の大胆エピソード
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愛を知らぬ家光
当時の家光は36才。
これに対しお万の方は16才。
女嫌いで知られていた将軍が、急にどうした? 親子ほどの歳の差がある美少女尼僧に惚れるなんて、なんてこったい!
当時からこんな調子で話題となったお万の方は、大奥関連作品では頻繁に注目されます。
一体なぜこんな状況になっていたのか?
家光について、少し補足説明しておきましょう。
◆家光は父母の愛を知らない?
二代目将軍である父の徳川秀忠に息子が生まれたとき、待望の世継ぎとして盛大に祝福されました。
むろん、家光のことです。
しかし、どういうわけか、母・お江(江与・小督とも/本稿はお江で統一)は、すぐ下の弟である徳川忠長を熱愛。

徳川忠長/wikipediaより引用
父の秀忠も、その流れに傾倒してしまう最中、救いとなったのが乳母の春日局と、祖父の徳川家康でした。
この「母に愛されぬ苦しみ」というのが、やがて劣等感や屈折した心を肥大化させ、フィクションでは重要な役割を果たします。
春日局との関係とも合わせて「マザーコンプレックス」としてことさら強調されるのです。
◆男色好み
徳川将軍が正室と不仲であることは、実はよくある話です。
しかし、家光の場合、跡継ぎが生まれるのがあまりに遅く、長男・徳川家綱が生まれたのが寛永18年(1641年)のことでした。
男色を好みすぎたのが原因とされます。
家光の男色関係を扱った作品として、隆慶一郎の小説『柳生非情剣』(→amazon)があります。
『柳生非情剣 SAMON』(→amazon)というタイトルで漫画化もされました。
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注目は、世継ぎが出来ない原因です。
ルイ16世のように「原因を聞き取り後、外科手術で治った」とはっきり記録が残っていればまだしも、家光の場合は曖昧。
しかしだからこそ、どこか心に傷を抱えた家光と、それを変えるお万の方のロマンスは盛り上がる。
男女逆転版では、さらに複雑な設定がなされていますが、史実においても、お万の方を側室にした後、複数人の子に恵まれているのですから、やはり彼女の影響力は大きかったでしょう。
実際、その後の彼女は大奥にて非常な力を有していくことになります。
春日局の後継者として大奥に君臨
寛永20年(1643年)のことです。
家光の乳母として尽力してきた春日局が亡くなりまりました。
このときお万は、こう言い付けられます。
「以後春日同様、諸事念入り申付けるべし」
春日局と同様、彼女は大奥の頂点に立ったのです。
しかも家光が亡くなってからも落飾せず、大上臈として本丸に残ったのです。
通常、将軍の妻や側室は夫の死後に仏門へ入るものでした。
それだけお万の方の存在感や指導力が発揮されていたということでしょうか。
明暦3年(1657年)1月18日に「振袖家事」の名で知られている【明暦の大火】が起こり、江戸城本丸が焼け落ちたときも、家光の正室であった鷹司孝子と共にお万の方が避難したことが記録されています。
そして正徳元年10月11日(1711年11月20日)、彼女は息を引き取ります。
享年88の大往生でした。
なぜ彼女には子がいなかった?
お万の方を寵愛するようになってから、家光は側室との間に子を授かりました。
しかし、お万本人には子ができておりません。
不仲が原因でもなく、彼女の体質が問題でもないとされ、一体なぜなのか?
妊娠するたびに堕胎されていた――。
そんなゾッとさせられる説があります。
徳川将軍家は京都から正室を娶るものの、世継ぎは出てきていません。京都から迎えた女性が将軍の母となる事態を避けるためというものです。
お万の方は参議の娘であり、上級公家の出身。名門の姫君だからこそ、若くして慶光院の院主にもなれました。
それほど朝廷に近い女性が将軍の子供を産み、やがてその子が次の将軍になられたら幕府としても困るというものですね。
トップ権力者の外戚が力を有するのはいつものこと。
実際、お万の親族は、彼女が将軍・家光の寵愛を受けたことで、利益を被っています。
一例が弟の戸田氏豊です。
彼は、母方の先祖が戸田氏にあたるのですが、姉が側室となると旗本に取り立てられました。
やはり将軍の妻に朝廷の女性を据えるのは危険なこと。
しかも彼女は聡明で、鋭い観察眼と権威は幕閣をも恐れさせたと伝えられています。
朝廷の意を汲む将軍が就任するといかなるリスクが待っているか。
実際の歴史が証明しています。幕末です。
徳川宗家から世継ぎが出てこなくなった頃。
水戸徳川家から、皇族の吉子女王を母とする徳川慶喜が第15代将軍に迎えられました。

徳川慶喜/wikipediaより引用
そして慶喜は、幕末の動乱の中で朝廷に引きずられるような態度を取り、幕臣たちを失望させています。
朝廷の権威に対し早々と屈してしまい、なんともすっきりしない幕府の終焉――もちろん倒幕は、慶喜一人の責任とは言えませんが、それにしても彼の態度は武士とは思えない軟弱さで批判されたものです。
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お万の方は不思議な女性です。
彼女に子供が生まれなかったせいか。家光の妻の紹介では、ほんの数行で終わることもあるかと思えば、大奥のフィクションでは大きな存在感を放っている。
一体なぜなのか?
わずか17歳で将軍家光に見初められたから?
あまりに美しかったから?
美少年好きの家光の趣味にあう中世的な見た目だったから?
はたまた春日局の策略?
フィクションではさまざまな描き方がなされています。
今後もそんな彼女の像を期待しましょう。
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【参考文献】
藤井譲治『人物叢書 徳川家光』(→amazon)
歴史群像シリーズ『大奥のすべて』(→amazon)
他






