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【お万の方(栄光院)】
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春日局の後継者として大奥に君臨
寛永20年(1643年)のことです。
家光の乳母として尽力してきた春日局が亡くなりまりました。
このときお万は、こう言い付けられます。
「以後春日同様、諸事念入り申付けるべし」
春日局と同様、彼女は大奥の頂点に立ったのです。
しかも家光が亡くなってからも落飾せず、大上臈として本丸に残ったのです。
通常、将軍の妻や側室は夫の死後に仏門へ入るものでした。
それだけお万の方の存在感や指導力が発揮されていたということでしょうか。
明暦3年(1657年)1月18日に「振袖家事」の名で知られている【明暦の大火】が起こり、江戸城本丸が焼け落ちたときも、家光の正室であった鷹司孝子と共にお万の方が避難したことが記録されています。
そして正徳元年10月11日(1711年11月20日)、彼女は息を引き取ります。
享年88の大往生でした。
なぜ彼女には子がいなかった?
お万の方を寵愛するようになってから、家光は側室との間に子を授かりました。
しかし、お万本人には子ができておりません。
不仲が原因でもなく、彼女の体質が問題でもないとされ、一体なぜなのか?
妊娠するたびに堕胎されていた――。
そんなゾッとさせられる説があります。
徳川将軍家は京都から正室を娶るものの、世継ぎは出てきていません。京都から迎えた女性が将軍の母となる事態を避けるためというものです。
お万の方は参議の娘であり、上級公家の出身。名門の姫君だからこそ、若くして慶光院の院主にもなれました。
それほど朝廷に近い女性が将軍の子供を産み、やがてその子が次の将軍になられたら幕府としても困るというものですね。
トップ権力者の外戚が力を有するのはいつものこと。
実際、お万の親族は、彼女が将軍・家光の寵愛を受けたことで、利益を被っています。
一例が弟の戸田氏豊です。
彼は、母方の先祖が戸田氏にあたるのですが、姉が側室となると旗本に取り立てられました。
やはり将軍の妻に朝廷の女性を据えるのは危険なこと。
しかも彼女は聡明で、鋭い観察眼と権威は幕閣をも恐れさせたと伝えられています。
朝廷の意を汲む将軍が就任するといかなるリスクが待っているか。
実際の歴史が証明しています。幕末です。
徳川宗家から世継ぎが出てこなくなった頃。
水戸徳川家から、皇族の吉子女王を母とする徳川慶喜が第15代将軍に迎えられました。
そして慶喜は、幕末の動乱の中で朝廷に引きずられるような態度を取り、幕臣たちを失望させています。
朝廷の権威に対し早々と屈してしまい、なんともすっきりしない幕府の終焉――もちろん倒幕は、慶喜一人の責任とは言えませんが、それにしても彼の態度は武士とは思えない軟弱さで批判されたものです。
だから徳川慶喜を将軍にしたらヤバい! 父の暴走と共に過ごした幼少青年期
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お万の方は不思議な女性です。
彼女に子供が生まれなかったせいか。家光の妻の紹介では、ほんの数行で終わることもあるかと思えば、大奥のフィクションでは大きな存在感を放っている。
一体なぜなのか?
わずか17歳で将軍家光に見初められたから?
あまりに美しかったから?
美少年好きの家光の趣味にあう中世的な見た目だったから?
はたまた春日局の策略?
フィクションではさまざまな描き方がなされています。
今後もそんな彼女の像を期待しましょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
藤井譲治『人物叢書 徳川家光』(→amazon)
歴史群像シリーズ『大奥のすべて』(→amazon)
他