承応二年(1653年)8月22日は、家康の側室・お万の方(養珠院)が亡くなった日です。
家康の側室は人数が多すぎて、一部の特徴的な人以外はあまり知られていないですよね。
お万の方と言えば、徳川頼宣と徳川頼房を産んだことで知られますが、実はその他にも強烈なエピソードを持っています。
その辺も交えつつ、彼女の生涯を追いかけてみましょう。
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小田原征伐後、関東支配を円滑に進めるため?
お万の方は天正八年(1580年)、上総(現在の千葉県)の戦国武将・正木頼忠(まさきよりただ)の娘として生まれました。
母については諸説あり、後北条氏の娘あるいは後北条氏の家臣の娘とされています。
当時、頼忠は後北条氏の人質として小田原に滞在。
当主だった実兄の時通が急死すると、再び上総へ戻ることになりました。
その際、お万の方の生母とは離別しており、母はまもなく後北条家の家臣・蔭山氏広と再婚し、お万の方はこの義父の元で育ちました。
お万の方は義父の影響で日蓮宗に帰依したといわれているので、血の繋がりはなくとも、そこそこ以上に関係は良かったと思われます。
そして慶長元年(1596年)頃、徳川家康に見初められて側室になりました。
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お万17歳、家康54歳という、当時としてもかなりの歳の差夫婦です。
この頃は豊臣秀吉の最晩年の時期であり、朝鮮の役における戦間期でした。
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当然、小田原征伐は既に終わっており、家康が関東に入封した後です。
後北条氏と縁のあるお万を側室にし、子供を産ませることで関東支配を円滑にする目的もあったのではないかと思われます。
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初代将軍様に男児3人では心もとない
家康は1590年代になると、お万の方以外にも多くの若い側室を迎えております。
五男・信吉が生まれてから六男・忠輝が生まれるまで9年ほど空いていますし、長男・松平信康はとうに死亡。
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さらに、次男の結城秀康は婿養子に行った後ですから、家に残っている男子は三男・徳川秀忠を含めて三人だけでした。
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まだ戦がなくなったともいえない世の中では、なんとも心もとない人数です。
当時の家康の領地250万石、あるいはその先の天下を踏まえれば、息子があと何人かほしい……と考えていてもおかしくはありません。
生まれた全員が成人するとも限りませんし、そのためには若い側室を何人か持ったほうがいい、という判断でしょう。
築山殿や朝日姫に続く三人目の正室を迎えなかったのは、政治的に色々めんどくさいからですかね。
この時代、側室ならどんな出自の人でもそうそう文句を言われることはないですし。
そして【関ヶ原の戦い】が終わり、お万の方は慶長七年(1602年)に徳川頼宣、翌年には徳川頼房を産みました。
家康の息子たちの中で下から二番目と末っ子にあたる人たちですね。
家康としても自分の死後のことを早く固めておきたかったからか。
二人とも幼児のうちに数十万石の大名になっています。
こうして家康の希望通りの役割を成し遂げたお万の方ですが、面白い(?)のはここからです。
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