寛文11年(1671年)1月10日は徳川頼宣が亡くなった日です。
後に御三家の一つ・紀州徳川家の初代となる人物であり、八代将軍・徳川吉宗のジーチャンでもあります。
男の子では上から数えて10番目なので、いい加減扱いがテキトーになるかと思いきや、家康の猫かわいがりときたら現代人からするとドン引くレベル。
頼宣の数え2歳にして水戸20万石をやるわ、同5歳で元服させて駿府に50万石をポンポンあげるわ、その気前の良さを結城秀康(次男)とか松平忠輝(五男・伊達政宗の婿)にも分けてやればよかったのに(´・ω・`)
※当コーナーは結城秀康・松平忠輝を全力で判官びいきです
ということで徳川頼宣の生涯を見ていきましょう。
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猫かわいがりと同時に家康自ら武術も仕込む
家康もただ単に甘やかすだけではありませんでした。
隠居後も手元に置いたのは自ら教育するためだったという見方もあります。
その一つに「頼宣が落馬して水に落ちても、家康は助けず放置した」なんて話も。
織田信長も若き頃は水泳と乗馬に励んだ――という記録が残されておりますが、徳川家康も水泳に関しては非常に熱心でした。
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その理由がいかにも戦国時代らしいものです。
「合戦はいつも勝てるとは限らない。大将だって、負けたときは戦場から逃げ、川を泳いで渡ることもある。そのとき水泳ができなかったらどうする? いざとなれば家臣に助けてはもらえないんだぞ?」
もう、頷くしかありませんよね。
実際、武田信玄を相手に【三方ヶ原の戦い】でボロ負けしている家康だけに説得力もあります。
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なんなら今川軍として参加していた【桶狭間の戦い】も負け戦でしたね。
このときの家康は、敗戦後に大樹寺で自害しようとしたところ、登誉上人(とうよしょうにん)から
「厭離穢土 欣求浄土」
【意訳】この戦乱の世を平和な世に変えるのがそなたの天命ですよ
なんて言われて思いとどまったぐらいです。
大樹寺へ来る前も「矢作川を渡って」おり(このときはおそらく船かと思われますが)、いずれにせよ水泳の重要性は文字通り身を持って体験していました。
我が子たちに習得させるのも、そりゃ必死になりますよね。
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「頼宣の発言こそ手柄である!」
頼宣は生まれが遅かったので、初陣は大坂冬の陣でした。
このときも家康の思い入れっぷりは凄まじく、初めて鎧をつける儀式【鎧初め】を自らの手で行ったようです。
同じく初陣だった徳川義直(頼宣の一つ上の兄で御三家・尾張藩の藩祖)についてはそういう話が伝わっていないので、やはり頼宣をひいきしていたのではないでしょうか。
一つしか違わないのにこんなに違う扱いをされて、よく義直がグレなかったものです。義直えらい!
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頼宣(と義直)は無事に初陣を終え、半年後、大坂夏の陣で二度目の戦に臨みました。
このとき頼宣は「先陣はぜひ私に!」と名乗り出たのですが、まさか家康の息子(しかもまだ中学生)を最前線に出すわけにもいかず、希望は聞き入れられません。
頼宣はよほど悔しかったのか。
涙を流して訴えたといい、そのあまりの剣幕に重臣が「まだお若いのですから、これからも先陣の機会はありましょう!」となだめると「私の14歳が2回あるわけではなかろう!」とますます機嫌を悪くしたとか。
これを聞いた家康のコメントがまた、もう猫も逃げ出すくらいの可愛がりようです。
「頼宣の言うことはもっともだ! 今の発言こそ手柄である!」
ここだけだったら普通に賞賛の言葉なんですけどね。
普段の甘やかしっぷりを知ってしまうと、ちょっとバカバカしくもなってしまい……。
清正の娘・八十姫と幸せな結婚生活を
ですが頼宣自身は頭もキレる人だったようで、父の寵愛を楯にするような言動はしませんでした。
加藤清正の娘・八十姫(やそひめ)との結婚生活も順調でした。
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元和三年(1619年)に和歌山へ移封された後も、藩を豊かにするべく力を注いでいます。
現在、和歌山県は愛媛県と並んでみかんの生産地として知られていますが、そのきっかけは頼宣だったそうですよ。
もともと和歌山で栽培されていたのを、頼宣が「うまい!!」(テーレッテレー♪)と大絶賛し、税を免除してまで生産を支援したとか。
「自分の好物を世に広めようとした」と考えると、ちょっと可愛いですね。
もちろん実利的な理由が大きいでしょうけども。
他にも和歌山城や城下町の整備をしたり、優秀であれば浪人でも召抱えて人材を充実させたり。
かなり熱心に領国経営へ取り組んでいます。
しかし、まだ戦国の気風が残る世の中では、さすがの頼宣も一生が順風満帆にとはいきませんでした。
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