慶長19年(1615年)12月4日は【真田丸の戦い】が起きた日。
大坂冬の陣で起きた戦闘の一つであり、大河ドラマのタイトルにもなった『真田丸』に真田信繁が籠り、徳川方に痛打を与えた戦いとして知られますね。
一応、最初に確認しておきますと、大坂の陣は冬と夏に2度行われ、真田丸が築かれたのは最初だけとなります。
1614年冬の陣では砦(真田丸)に入って徳川軍をぶっ潰し。
1615年夏の陣では特攻をかけて家康を死の寸前まで追い詰む。
そんな流れですね。
今回は【真田丸】を含めた【大坂冬の陣】を城郭検定保持者のお城野郎!に解説してもらいます。
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信長も秀吉も超苦労した拠点に弱点って?
砦としての真田丸とは一体なんぞや?
一般的にはこんな風に解説されます。
「大坂城の弱点と言われ、唯一の陸続きである南側の“平野口”を強化するために築かれた馬出(うまだし)もしくは出丸(でまる)」
大坂城を補強するため真田丸が築かれたのは、確かにその通りです。
しかし「馬出」というのは、ちょっと違和感。
そもそも攻城戦で最も狙われやすい城門補強のために造られるもので、真田丸が設置された台地や尾根伝いの陸続きの場所を強化する防御設備は通常「堀切」と呼ばれます。
ともかく私にはこの時点で非常に不思議なことがあります。
戦国時代のお城は全国に何万(細かい拠点も含めて一説には4万)と築かれていて、その中でも数多の修羅場を切り抜けてきた猛者どもの集大成が「大坂城」です。
そんな大坂城が、ですよ。
台地の陸続き部分が弱点になるって、なんだかおかしいと思いませんか。
別に、真田信繁に指摘されなくても、築城時の縄張り段階でそのことは十分に把握していたはず。
天下の豊臣秀吉がそんなわかりやすい弱点を見逃すことはないでしょう。
実際、大坂城が築城される少し前、このエリアにあった「石山本願寺」は難攻不落の要塞でした。
ここを攻めていた織田信長は、やはり陸続きの台地に本陣を構え、何年にも渡って包囲しなければならなかったほどです。
おまけにこの「石山合戦」には秀吉自身も参加して数多の苦汁を飲まされており、自身が大坂城を築城するとき「台地の陸続き部分」の防御を放置していたというのはちょっと考えられません。
少し遠回りになって申し訳ありませんが、真田丸の真実を解明するのに「堀切」は非常に大切なことですので、こうした疑問にも触れつつ先へ進めて参りたいと思います。
江戸城や金沢城にも同じ構造が見える!?
城郭、特に山城を築城するのに理想の適地は、独立峰の「男山」だと言われています。
連峰の「女山」では、尾根伝いの攻撃が城の弱点となって防御に向きませんが、男山ならば360度視界が開け、かつ城郭部分が唯一の高所になります。
戦国時代初期にはすでに、全国各地で尾根続きが城の弱点として指摘されており、実際、このルートからの攻城は定石でした。
しかし、当時の実情を考えると、戦略要地にそうそう都合よく男山がそびえているとは限りません。
在地領主たちは女山での築城にも取り組まなければならないワケで、そこで発明された防御施設が「堀切」でした。
尾根筋を分断するよう深い切り込みを入れ、敵の攻城兵が簡単に平行移動できないようにしたのです。
以下の画像をご覧ください。
山に急角度で切り込みが入っているのが一目瞭然ですよね。
かように堀切は、山城でよく見られる仕掛けでした。
それがいつしか近世城郭の平山城や平城にも用いられるようになり、最高峰たる江戸城でも備えられました。
東京の都市化に呑み込まれてあまり意識されませんが、江戸城は、荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地の突端に築かれた城で、北西に向かって緩やかに上っていく台地になっています。
この陸続きの江戸城北西部の千鳥ヶ淵や半蔵門辺りの三宅坂には、これでも都心か?というほどの深い堀が掘られ、武蔵野台地から江戸城を分断しています。
以下の写真が江戸城の堀切です。
江戸城の「尾根伝い」に対する防御戦略はそれだけじゃありません。
広大な西の丸を築いて十分な縦深を取り、本丸を標高の高い台地から守るように作られております。
江戸城では四ッ谷辺り(上智大学など)にも外堀が通っていて、さらに西側の高地に対して防備強化されており、二重の防御で外部からの攻撃に備えています。
もしも幕末の江戸城が無血開城されていなかったら、西側からの攻略も決して簡単ではなかったでしょう。
もう一つ大きな城で例を見てみましょう。
江戸城と、構造的にはよく似た地形に建てられた金沢城です。
同城も台地(小立野台地)の突端に築かれた城であり、小立野台地から金沢城を分断する巨大な堀切は石川門と兼六園の間にあります。
現代では交通量の多い道路になっていますが、昔は水堀でした。
金沢城も台地を堀切で分断し、城の対岸に兼六園を造成することにより十分な縦深を取り、本丸を防衛しているのです。
城マニアにとっての兼六園とは、加賀百万石を代表する庭園ではなく、金沢城の防御力を強化する重要な防衛施設なのです。
このように、近世城郭のような平城や平山城でも「尾根伝い」を「堀切」で分断し、更に「縦深のある郭」を構築して本丸の防御力を高め、弱点を強みに転換しているのです。
では大坂城はどうでしょう?
大坂城の空堀を前に伊達政宗も松平忠直も撃沈す
大坂城は「上町台地」の突端に本丸が築かれました。
台地の陸続き部分である城の南側以外はすべて川と水堀、そして天然の湿地帯で遮断されています。
すぐそこは海という河口と湿地帯に囲まれ、城外とは十分な高低差がある高台に築城されたのです。
織田vs本願寺の『石山合戦図』をご覧いただくと、周囲が水だらけなのがよくわかります。
大坂城の周囲は、南側にのみ地面が繋がっております。
ここには一辺が約2キロといわれる「総構」の土塁と空堀が東西に渡って構築されており、さらに南にある台地と大坂城を分断しておりました。
一般論を反映していると思しきWikipediaでは、この総構の空堀を軽んじる記述が大変残念でして。
空堀を決して甘く見てはいけません。
大坂城の南側総構の空堀は幅約20m、堀底までの高さは約11mあり、かなりの防御力を保持しておりました。
土塁についても、石垣を張り巡らせた方がパッと見は堅強そうに見えますが、きれいに削りこんだ土塁は攻め手にとって足場がなく非常に登りにくいのです。
その上に大きな重量のある櫓、たとえば多聞櫓のように幅があり瓦葺きの櫓を設置するならば頑丈な石垣が必要です。
しかし、大坂城・総構の塀は銃眼を穿った(銃を撃つための)穴だけなので、土塁で十分な防御力を発揮できます。
実際、冬の陣(1614年)での豊臣方は、この総構の堀と土塁で、先鋒・藤堂高虎の軍勢を退却させていますし、越前・松平忠直の軍勢も退けて、南側総構のすべての攻撃ポイントで完璧に守備。
塀の内側には一兵も侵入させませんでした。
なるほど、突出した真田丸からの横矢があったから、総構がより強化された――そんなツッコミもあるかもしれません。
しかし、真田丸からの横矢による敵側面への攻撃は、せいぜい松平忠直勢の右翼を脅かした程度でしょう。
最も西に位置する伊達政宗の陣まで横矢の射程に入られるほど大坂城の総構は小さくありませんし、そのコンセプトであれば真田丸規模の構造物を総構のど真ん中にもう一つ築いてもよかったハズです。
このように豊臣時代の大坂城も「尾根伝い」に対して十分な防衛措置は取られており、現代人に指摘されるまでもなく弱点の補強は万全。
むしろ強みにしていて、Wikipediaの書き込みのように空堀と土塁を甘く見た徳川方兵士たちがアリ地獄に呑み込まれていたのです。
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