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【大坂冬の陣】
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主導権を握るため目立つ必要があった
大坂冬の陣では、残念ながら孤立している豊臣方に後詰めは期待できませんでした。
後藤又兵衛や真田信繁など豊臣方浪人衆の「城を出て隘路で待ち伏せて決戦!」という戦術は、後詰めのない中いかに主導権を握るかを考えた末、大軍の運用が難しい要地での先制攻撃という内容でした。
しかしこれが却下された今、総構まで迫られることは必然です。
ゆえに次なる作戦を考えねばなりません。
それが真田丸という超巨大な出丸の構築でした。
総構よりも突出した位置に、傍目にも目立つ構造物がある――こんな状況で攻撃側は当然無視など出来ません。
城門を守る程度の馬出であれば、徳川の大軍を惹きつけられませんが、突出した場所でしかも巨大な構造物で
『なんや、こいつ、何かヤバいで!』
と思わせれば、攻城側は必ず排除に向かいます。
そもそも要衝に城を構築するのと同じ理由。
無視すれば背後や側面をやられるなと思うようないやらしい場所に城を構築することによって、敵を引き付けることができるのです。
また、戦国時代は敵兵の人数を把握するために、城の出丸の大きさや構の長さ、枡形虎口の大きさなどで、おおよその兵力を把握していました。
真田丸の兵数が実際どれぐらいの人数なのか?
徳川方から見れば推測でしか分かりませんが、実際の数より多く見えた可能性は高いです。
そういう目的も持った出丸なら巨大な方が都合がよいワケです。
このように攻撃側は必ず真田丸の排除に来ると分かれば守備側は戦術が立てやすくなります。まずは真田丸に兵力を集中すればよいからです。
相手の出方が分かった時点で主導権は守備側に移動。
これが真田丸の役割の一つで、拠点陣地は相手を引き付けるものではなくてなりません。誰にも相手にされない魅力のないものではダメなのです。
そういった意味でも真田丸は敵の目を引く巨大な構造物である必要がありました。
いかがでしょうか。
真田丸が単なる大阪城の付属品ではなく、最前線の城の役割を持っていたことがお分かりいただけたでしょうか。
真田信繁の必勝戦術は徳川の黒歴史
では真田信繁にとって理想的な展開・戦術とは?
徳川方の先鋒を真田丸に引きつけて攻城戦に持ち込み、撃退したところで、退却する敵を追撃し、さらに本陣へと切り込む手順が考えられます。
これは信繁の父・真田昌幸が第一次(1585年)と第二次(1600年)の上田城攻防戦で徳川方を手玉に取った手法です。
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上田城の城外で徳川方を迎え討つふりをしながらあっさりと後退。
上田城三の丸から二の丸までを徳川方に簡単に通過させ、存分に油断させつつ、自らの軍勢は狭い本丸の大手門に集中し、別働隊に側背を突かせて大混乱を引き起こし、一気に反撃に出るという流れです。
ただし、言うは易く行うは難し――。
敵に、城の本丸まで攻めさせるため、相当な忍耐と訓練が必要です。
真田昌幸は櫓でずっと碁を打っていたという逸話がありますが、総大将もこれぐらいの心の余裕と肝が据わっていないとできません。
大坂冬の陣では、どうだったのでしょう?
真田丸の城兵は、まず城外の真田丸付近にある「篠山(ささやま)」という小高い丘に陣取り、徳川方の先鋒到着を待ちます。
篠山の具体的な場所は判明しておりませんが、戦場全体を見渡せて、真田丸に迫る位置にあった小高い丘を豊臣方が無防備で放置していたとはちょっと考えられません。
おそらく真田丸の外郭のような位置付けだったのでしょう。
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