大河ドラマ『豊臣兄弟』の第4回放送では、主題の「桶狭間の戦い」より衝撃的だった場面がありました。
信長の弟・織田信勝(信行)が斬られたシーンです。
信長の寝所に現れた弟の信勝が、何か言いたそうに近寄ろうとしたところ、背後の障子がガラッと開いて、柴田勝家が一刀両断!
あれは一体なんだったのか?
史実でもあんな風に斬られたのか?

絵・小久ヒロ
劇中では、いまいち因果関係が掴みにくかった織田信勝の殺害理由について、史実から振り返ってみましょう。
最初から兄弟仲は悪かったのか?
織田信勝の生年は不詳。
父は織田信秀、母は土田御前で、兄の織田信長とは同母弟だったとされます。
兄弟は昔から仲が悪かったのか?というと、天文二十一年(1552年)、父の信秀が亡くなった以降、徐々に表面化していきます。
例えば父・信秀の葬儀。
信長が仏前に抹香を投げつけた暴挙はあまりにも有名でしょう。
信長を称えるはずの『信長公記』にも書かれていることから事実と思われ、そこには兄弟を対比するような描写も記されています。
◆織田信長……大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷で、袴も履かず
◆織田信勝……折り目正しい肩衣と袴を着用
現代風にまとめれば、地方都市でアルファードを乗り回すパリピ兄貴と、地元の進学校に通うエリート弟という感じでしょうか。

若き日の織田信長イメージ/絵・富永商太
こんな調子ですから、母の土田御前も弟を贔屓していたとされ、実際、それまで信秀と土田御前が住んでいた末盛城は、信勝に与えられています。
信長の居城は清州城。
両者の対立がいよいよ激化していくのは、翌天文二十二年(1553年)からでした。
まず、尾張の主要エリア・熱田において、信長と信勝の判物(はんもつ・花押つきの重要書類)が盛んに出されています。
熱田神宮を中心に、商業で賑わうエリアを互いに取り込もうとする争いですね。

熱田神宮本宮
さらに弘治元年(1556年)6月にも象徴的な事件が起きます。
両者の弟・織田秀孝が誤って射殺されたとき、信長が「秀孝にも過失あり」として事件を見過ごしたのに対し、信勝は実行犯の主君である織田信次の守山城へ攻め込み、城下町を放火するのです。
信勝にしてみれば「兄貴の判断なんて不要、俺は俺でやる」というわけですね。
こんな調子ですから、いよいよ武力衝突も避けられないわけで。
ついに「稲生の戦い」と呼ばれる戦いが勃発します。
稲生の戦い
弘治二年(1556年)8月――。
林秀貞・林美作守・柴田勝家らに担がれた織田信勝が信長の直轄領を奪い取ると、同月22日、信長も対抗して名塚砦を設置。
末盛城への攻撃に使う拠点を作ったのです。
【拠点の位置】
清洲城――名塚砦――末盛城
むろん信勝たちも黙ってはいません。
翌23日、名塚砦へ攻め込むため、柴田勝家の軍勢1000、林美作守700が出陣しました。
これに対応して、24日、信長も700程の兵を引き連れ、清州から出動。
両軍はついに激突します。

柴田勝家(左)と織田信長/wikipediaより引用
700vs1700ですから、数の上では柴田勝家と林美作守が圧倒しています。
しかし信長が、まず半数の350を勝家へ差し向けると、信長配下の山田治部左衛門が勝家に首を取られながら、その勝家にも負傷を負わせ、引き下がらせます。
その後は互いに討ったり討たれたり。
本来は味方同士の不毛な戦いに両軍共に嫌気が差してきたのでしょう。
信長が怒号をあげたのをキッカケに、柴田軍は崩れて逃げ去っていきました。
そこで信長軍は、残った林軍に襲いかかり、あろうことは信長は林美作守との一騎打ち。
結果、林美作守を斬り伏せ、首を取るという、漫画のような展開となります。
出来すぎたストーリーですので一騎打ちは盛られた話かもしれませんが、いずれにせよ大将の織田信勝が前面に出てこない時点で勝負は決まっていたのかもしれません。
勝家が信長へ 信勝の謀反計画を密告
戦後、織田信勝や柴田勝家の命は赦されました。
母の土田御前に乞われ、信長が受け入れたのです。

土田御前イメージ・小久ヒロ
信勝と柴田勝家らは“墨染めの衣”を着用して、母と共に信長を訪れ、礼を述べるほどです。
さすがにそこまで反省していれば、もはや従うしかないだろう――普通ならそう思うところですよね?
しかし、です。
この織田信勝が懲りないヤツで……。
正確な時期は不明ながら、戦いから1年足らずのうちに、今度は織田信安(岩倉織田氏)と共謀して、信長の直轄領を奪おうと企むのです。
一体どうやって奪うつもりだったのか。自ら戦場に出ないような大将が、精強な信長軍に対してどう戦うのか、その辺の計算ができてないようにも思えます。
要は、甘やかされた“お坊っちゃん”だったのでしょう。
そんな計画が上手くいくはずはなく、柴田勝家から織田信長へと伝えられました。
なぜ勝家は信勝を裏切ったのか。
悪いのは、やはり信勝でした。
稲生の戦い後、すっかり男色に溺れて勝家をないがしろにしていたため、それを無念に感じていた勝家が謀反計画を知り、信長へ告げたのです。
では、そこからどうやって信勝を討ったのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』のように柴田勝家が斬ったのか?
では実行犯は?
柴田勝家から計画を聞かされた織田信長は、病気のふりして寝所に閉じこもります。
外へはいっさい出ず、何日程そうしていたのか、正確な期間は不明です。
ただ、織田信勝の耳にもそうした情報が入るようにはなっていたでしょう。
弘治三年(1557年)11月2日、母と柴田勝家の勧めで兄の見舞いへ出向いた信勝。
清洲城北櫓天守次の間で、ついに誅殺されてしまいました。
では実際に、信勝を斬ったのは誰なのか?
『信長公記』でも写本によって異なり「河尻秀隆・青貝某」と記すものがあれば、「河尻青貝」というものもあり、確定していません。
河尻秀隆は織田家古参武将の一人。古くから信長に仕え信頼度も高いので申し分ない人選でしょう。

河尻秀隆/wikipediaより引用
河尻青貝は、他に記録が残されておりません。
池田恒興という説もあり、信長の乳兄弟だけに何やら信憑性も感じさせますが、おそらく後世の創作でしょう。
★
大河ドラマ『豊臣兄弟』で織田信勝を斬ったのは、前述の通り柴田勝家です。
山口馬木也さんが刀を振るうシーンに需要があったからこそでしょう。
今後、秀吉と対峙する「賤ヶ岳の戦い」も楽しみに待ちたいところですね。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
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