岩成友通の浮世絵

太平記英勇伝十五:岩成主税助左道(落合芳幾作)/wikimedia commons

三好家

三好三人衆とは何者か|信長の上洛に徹底抗戦した“前天下人”たちの行く末

大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目される織田信長と足利義昭の上洛

足利義昭を将軍にするため織田軍が京都へ進軍すると、このとき信長と激しく対立したのが三好三人衆です。

三人とは以下の通り。

  • 三好長逸(ながやす)
  • 三好宗渭(そうい)
  • 岩成友通

一般にはあまり知られた名ではありませんが、信長が天下人となるストーリーには欠かせない敵でして。

なんせ、信長の上洛以前に京都を支配した軍勢であり、その後、美濃を追われた斎藤龍興と共に本圀寺で戦うなど、信長ファンにとっても大河ファンにとっても見逃せない存在と言えます。

岩成友通

太平記英勇伝十五:岩成主税助左道(落合芳幾作)/wikimedia commons

いったい三好三人衆とは何者なのか。

 

信長前の天下人だった三好勢

まずは三好三人衆の前に、彼らが仕えていた三好長慶に注目しておきましょう。

実はこの方、“最初の天下人”とも言われる戦国大名です。

三好長慶の肖像画

三好長慶/wikimedia commons

織田信長の上洛前に、京都のある山城国をはじめ、畿内の大部分および周辺エリアを制していたためそう呼ばれたのですが、永禄七年(1564年)7月に43歳で亡くなってしまいます。

跡を継いだのは当時14歳の三好義継(長慶の甥・養子)。

そんな若い主君を盛り立てる立場として活躍したのが三好三人衆です。

三人衆をはじめとする三好勢は、引き続き京都や畿内支配を目論む気満々。

ゆえに、上洛をして彼らの権益を奪う織田信長とは、後に戦って当然なんですが、ここでもう一人注目しておきたい権力者がいます。

13代将軍・足利義輝です。

大河ドラマ『麒麟がくる』で向井理さんが演じ、最期は四方八方から刺されて死ぬという、壮絶な討死シーンを覚えている方もいらっしゃるでしょう。

永禄八年(1565年)、この義輝暗殺を実行したのが三好三人衆と松永久通(松永久秀の息子)でした。

足利義輝の肖像画

足利義輝/wikimedia commons

永禄の変」と呼ばれる事件です。

 


義昭が脱出

足利義輝と対立していた三好三人衆や松永久通。

彼らも当初は義輝を殺害する意図まではなく、御所巻(ごしょまき・自分たちの要求を訴えるため拠点を囲む)で済ませる予定だったとされます。

要は脅しですね。

しかし、争乱の中で湧き上がる兵たちを抑制しきれなかったのでしょう。

不運にも殺されてしまった足利義輝は、足利義昭の兄でした。

そこで三人衆は、当時まだ奈良の興福寺一乗院で門跡だった義昭(僧名は覚慶)を監禁するのですが、松永勢の不手際から幕臣・細川藤孝たちに救出されてしまいます。

幕臣や織田軍にとっては、義昭を奉じておけば「仇を討つ」という大義名分を得たことにもなりますね。

一方、三好勢が後手に回ったことは否めず、彼らの結束は徐々に緩み始め、ついには永禄九年(1566年)に松永久秀と決裂。

松永久秀の肖像画(高槻市立しろあと歴史館蔵)

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons

三好三人衆にしてみれば久秀を追い出した形になりますが、肝心の後継ぎ・三好義継が久秀に味方をしており、三好三人衆は引くに引けません。

そこで永禄十年(1567年)10月、三好三人衆と松永久秀の間で勃発したのが「東大寺大仏殿の戦い」でした。

 

東大寺大仏殿の戦い

松永久秀の悪行として知られるこの東大寺大仏殿の焼失事件。

そもそもは永禄十年(1567年)5月、東大寺の念仏堂や二月堂、あるいは大仏の回廊などに三好三人衆の陣所が置かれたために起きたとも言えます。

奈良の大仏

東大寺盧舎那仏坐像

「それでも大仏を焼いたのは松永久秀なんでしょ?」

どうしてもそんな印象が強いかもしれませんが、永禄十年(1567年)10月10日に衝突したとき、両軍共に火を放っていたことが『多聞院日記』など複数の日記に記されています。

もはや、一方のみを断罪できる話ではなく、詳細は別記事「東大寺大仏殿の戦い」に譲りますので、後ほどお読みいただければ幸いです。

いずれにせよこの戦いで双方の決着はつかず、松永久秀は織田信長に接近して、自身の地位を守ろうと画策します。

信長は永禄十年(1567年)8月に美濃攻略を済ませており、上洛の下準備は整っていました。

一方、三好三人衆や三好勢の切り札となったのが足利義栄です。

信長や義昭に先んじて、義輝死亡後、空位になっていた14代将軍の座に義栄をつけたのです。

 

14代将軍・足利義栄を擁立

実権に乏しい足利将軍とはいえ、なお政治的価値はありました。

各地の大名に命令を出す「御内書」を発したり、和睦の仲裁に立ったり、あるいは京都などの政務を担ったり。

自分たちが擁立した足利義栄が晴れて将軍となり、三好三人衆としては一安心だったかもしれません。

あらためて彼らの名前を確認しておきましょう。

  • 三好長逸(ながやす)
  • 三好宗渭(そうい)
  • 岩成友通

最年長で代表格なのが三好長逸(ながやす)です。

三好一族を畿内の実力者に押し上げた三好之長の孫であり、長逸も長老として手腕を振るいました。

三好宗渭はいわゆる武将タイプで、真田十勇士の「三好清海入道」のモデルともいわれます。

最後の岩成(石成)友通だけ三好家の血縁者ではありませんが、文武両面の才覚を買われて重臣となっていました。

いずれも戦国ゲームなどで名前を見かけたことのある方もいるかもしれません。

三好三人衆による花押の連署(東寺百合文書)

三好三人衆による花押の連署(東寺百合文書)/wikimedia commons

しかし足利義栄を担いだ彼らの権勢は長くは続きません。

永禄十一年(1568年)9月、ついに織田信長と足利義昭が上洛してきたのです。

 


三人衆と久秀の決裂

永禄十一年(1568年)9月7日、美濃を出発した数万もの織田軍はまさに快進撃でした。

ルートを大雑把に記しておきますと、美濃を出発した後は北近江と南近江を通って、京都へ。

北近江の浅井領は同盟相手ですので問題なく進み、南近江で六角義賢と激突することになります。

六角義賢の浮世絵

六角承禎(六角義賢)の錦絵/wikimedia commons

戦闘は9月11日から行われました。

織田軍は13日、六角義賢の箕作山城や観音寺城などを瞬く間に陥落させると、その後は人馬を休めながら琵琶湖の湖上ルートなども利用して、京へ入ります。

「尾張の田舎大名が都を荒らしに来る!」

そんな噂で京都は事前に混乱した様子でしたが、いざ織田軍が入ると厳重な取締りにより治安は保たれ、徐々に平静を取り戻します。

では三好三人衆は、一体どこで織田勢を迎撃することにしたのか?

というと岩成友通が500の兵で勝龍寺城で待ち構えていました。

しかし柴田勝家や蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚らの軍勢に攻められ、こちらも瞬く間に落とされてしまいます。

『足利季世記』には三好勢50以上の首が取られたと記されていますが、岩成友通は逃れています。

 

阿波へ退くしかない三好勢

織田軍の入京後も、三好三人衆は粘ろうとします。

しかし、同年9月29日に摂津の芥川城が落城すると、10月2日には三好三人衆の味方であった池田城も落とされ、池田勝正は信長に降伏します。

さらには茨木城や高槻城など、三好勢の拠点は次々に陥落。

織田の大軍に囲まれるとなすすべなく、結局、三好勢はそもそもの本拠地である四国の阿波へと退いていくしかありません。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

一方、織田の快進撃を喜んでいたのが松永久秀です。

三好三人衆と対立していた久秀が信長に誼を通じていたのは前述の通りで、いざ織田軍が上洛すると茶器の名物として知られる「九十九髪茄子」を差し出しています。

久秀だけでなく畿内や周辺エリアの諸勢力が、一気に三好勢から離れて信長の傘下となりました。

 


本圀寺の変

天下人として一時は権勢を誇った三好勢・三好三人衆も、これで呆気なく終わるのか――。

というと、彼らも意地を見せます。

永禄十二年(1569年)1月6日、足利義昭が宿所としていた本圀寺を襲撃したのです。

本圀寺の変」として知られるこの事件、美濃を追われていた斎藤龍興も三好三人衆と共に参戦しており、手薄な防御施設の中で奮闘したのが明智光秀細川藤孝らの幕臣です。

細川藤孝(左)と明智光秀の肖像画

細川藤孝(左)と明智光秀/wikimedia commons

足利義昭を15代将軍に就任させ、意気揚々と岐阜へ戻った織田信長は、まさに震撼したのでしょう。

早馬で一報を聞きつけると、大雪にもかかわらずわずか2日で京都へ到着したといいます。

本圀寺は、光秀や藤孝らの踏ん張りに続き、周囲から駆けつけた池田勝正や和田惟政らによって、蹴散らされ、三好三人衆や斎藤龍興の大勝負は失敗に終わりました。

 

野田・福島の戦い

本圀寺の変に敗れた三好三人衆はまだ諦めません。

永禄十二年(1569年)5月に三好宗渭が死去して、その跡を三好為三(いさん)が継いだためメンバーは代わっておりますが、引き続き三好長逸・岩成友通らと共に行動。

彼らは元亀元年(1570年)に摂津へ上陸すると、野田城と福島城を築き、織田信長と足利義昭に対して挙兵します。

「野田・福島の戦い」と呼ばれる合戦です。

一報を聞きつけた信長は、松永久秀に軍勢を準備させながら、自らも出陣して両城を包囲。

ところが三好三人衆は当初から浅井長政・朝倉義景とも示し合わせていたようで、浅井朝倉連合軍も南下して、織田軍を挟撃しようと画策していました。

浅井長政と朝倉義景の肖像画

浅井長政と朝倉義景/wikipediaより引用

危機的状況に陥る信長は、三好三人衆の切り崩しを図り、三好為三の寝返りには成功します。

しかし、石山本願寺までもが三好三人衆サイドにつくと、もはや浅井朝倉連合軍も迫っており、野田城・福島城の攻略は諦め、摂津から退くしかありません。

そして浅井朝倉軍を討つため、比叡山延暦寺へと向かい、最終的に和睦となりました。

三好三人衆は、その後、元亀二年(1571年)に転機を迎えます。

松永久秀や三好義継らと再び手を組み、三好氏の再興を目指したのです。

しかし、これは三好長逸と松永久秀の主導で進められたものであり、久秀と折り合いの悪い岩成友通にとっては良い条件とは言えません。

結果、元亀三年(1572年)1月に岩成友通は織田方へ寝返ります。

友通は信長から厚遇されました。

山城などに代官職や守護代などの権益が与えられ、淀城の城主として一時期は明智光秀や細川藤孝らと並ぶ、京都エリアの要として期待されたのです。

しかし義昭が信長と決別し、元亀四年(1573年)7月槇島城の戦いで織田軍に敗れると、このとき義昭に味方したため豊臣秀吉らに攻められています。

そして天正元年(1573年)8月2日、淀城で討死しました。

三好長逸については元亀四年(1573年)2月の記録を最後に歴史の表舞台からは消えております。

まとめますと三好長逸は元亀四年(1573年)、三好宗渭は永禄十二年(1569年)、岩成友通は天正元年(1573年)に最後を迎えました。

信長の上洛後はバラバラになった感が否めませんが、それまでは天下人の三好長慶を補佐して、時代を作った三好三人衆。

その次代の天下人となった織田信長上洛の詳細については別記事「織田信長と足利義昭の上洛46日間」をご覧ください。

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考書籍

天野忠幸『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(2023年2月 戎光祥出版)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(2009年10月 学研パブリッシング)
日本人名大辞典
世界大百科事典

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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