「裏切り者」と聞くと、卑怯な人物を思い浮かべるかもしれません。
しかし戦国時代の国衆にとって「東西有力者のどちらに従うか?」というのは御家の存亡をかけた命がけの判断であり、なりふり構っていられないものです。
播磨の三木城主・別所長治も、まさにその選択を迫られた一人。
大河ドラマ『豊臣兄弟』でも描かれたように、天正六年(1578年)2月、別所家は突如、織田家から離反して毛利方に転じました。
この一件により秀吉の中国攻略は大きく予定が狂い、下手すりゃ自軍が挟撃に遭うという窮地に追いやられるのです。
では一体、別所長治はなぜ秀吉から離反したのか。現実的に勝算はあったのか。

別所長治/wikipediaより引用
当時の状況を振り返ってみましょう。
東播磨の実力者・別所家と三木城
播磨国三木城を本拠とする別所長治。
別所氏はもともと播磨守護・赤松氏の流れを汲む名門であり、東播磨では一目置かれる存在でした。
三木城も単なる一拠点ではありません。
有馬街道に面して加古川の水運利権も得られる要衝にあり、本丸を中心に幾重にも曲輪を構えた堅城として知られます。
ただし、当時の長治が、まだ20代前半の若き当主というのは一つのネックでした。
天正三年(1575年)以降、長治はほぼ毎年上洛し、織田信長に面会。
信長から偏諱を受け、従属していたとも指摘されるような立場でしたが、その一方で城内は織田派と毛利派がしのぎを削るような状態だったのです。
織田派:別所重棟
毛利派:別所吉親(賀相)
この二人は長治の叔父であり、後見するような立場でもあって、当主といえども彼らの意向は無視できない。
御家の一大事をめぐって重臣が対立という、戦国時代にはありがちで危うい状況となっていました。
ではなぜ別所長治は、織田家から離反したのか?
加古川評定は俗説——本当の理由は別にある
別所長治の離反を語るとき、よく引き合いに出されるのが「加古川評定」です。
羽柴秀吉が播磨の諸将を集めた軍議の場で、別所賀相と対立し、秀吉に侮辱された別所が毛利方へ転じた——そんな筋書きであり、物語としては非常にわかりやすいでしょう。

絵・富永商太
しかしこのエピソードは『別所長治記』や『播州三木別所記』など、後世の軍記物語に記されたものであり、史実とは認められていません。
なんせ、事は、別所家の存亡に関わる一大事です。
たった一度の軍議で「ムカついたから敵対!」ってのは、あまりに幼稚じゃありませんか。
それが主な理由だったとは現実的に考えられず、加古川評定はあくまでエピソードとして押さえておくべきでしょう。
多面的に見ていくと、そこには主に3つの要素が浮かんでくることがわかります。
①別所家中の分裂
②秀吉の分断工作
③足利義昭と毛利氏の調略
一つずつ見て参りましょう。
家中の分裂と秀吉の介入
まず「①別所家中の分裂」とは前述の通り、
毛利派・別所賀相
vs
織田派・別所重棟
という対立ですね。
別所長治の離反は、若き当主が突然怒って決めたものではなく、家中の意見が割れ、毛利派の判断が勝った結果であります。
しかも秀吉は「②分断工作」にも乗り出していました。
当主・長治の意向も聞かず「別所重棟の娘と、黒田官兵衛の息子(黒田長政)の縁談を進めた」というのです。

黒田官兵衛/wikimedia commons
自分の知らないところで、家中の有力者が秀吉や黒田家と強く結びつく――これでは別所家当主の権限が根底から揺らぎ、将来的には家を乗っ取られるかもしれない。
長治や毛利派がそんな危機感を抱いたとしても不思議ではないでしょう。
そこへ畳み掛けたのが「③足利義昭と毛利氏の調略」でした。
足利義昭と毛利の調略
天正元年(1573年)8月、織田信長に京都を追われた足利義昭。
その後は毛利氏のもとに流れ着き、反信長勢力の旗印として播磨の国衆へも離反を働きかけていました。
別所長治も、調略を受けた一人です。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)/wikimedia commons
義昭からの声掛けの効果は、意外と小さくありません。
なんせ、この時点での毛利は織田軍に対抗できるだけの兵力を有しており、瀬戸内海を動く強力な水軍も抱えています。
播磨の国衆から見れば、織田も毛利も両方強い。
最終的にどちらが勝つかまだまだ読めず、もしも毛利が本格的に動けば秀吉は播磨で孤立する危険性すらありました。
そうした様々な要素から、どんな決意が導き出されるのか。
長治の離反は、周辺国衆と情報を交わしながら冷静に導き出された最終判断だったのでしょう。
三木城には確かに「戦略」はあった
では別所長治に勝算はあったのか?
むろん最初から負けるつもりで戦をする者などおりませんが、ともかく別所家では
「三木城に籠もって情勢の変化を待つ戦略があった」
と見るのが良いかも知れません。
具体的には「毛利の援軍」と「海路からの補給」です。
長治が三木城に籠もる限り、秀吉は西方向へは進軍できず、モタモタしていれば毛利軍に挟撃される危険性が高まる。
実際に別所長治が離反すると、毛利軍の吉川元春や小早川隆景などが上月城を包囲し、秀吉は思うように動けなくなっています。

毛利元就の息子である吉川元春(右)と小早川隆景/wikipediaより引用
一方、三木城は、加古川や高砂・魚住を通じた海路から兵糧を受け取ることもでき、毛利水軍の支援を受けながら粘り勝つ――そんな勝利へのシナリオが存在していました。
上月城を見捨て「三木の干し殺し」
別所長治の離反は、上月城の運命まで変えました。
尼子勝久や山中鹿介らが入っていた上月城が毛利軍に囲まれる。
秀吉がその救援に向かいますが、背後の播磨では三木城が毛利方に転じており、いつまでも上月城にこだわっている場合でもない。
超合理的な織田信長は一瞬にして悟ったでしょう。
上月城から撤退し、三木城攻略を優先せよ!

織田信長/wikimedia commons
そんな鶴の一声で羽柴軍は上月城から撤退することになり、結果、尼子勝久は自害、山中鹿介も後に殺害され、上月城は毛利方の拠点となりました。
こうなったら秀吉としても三木城を完全に落とすしかない。
では実際どうするか?
そんな状況で行われた戦い方が「三木の干し殺し」です。
城の周囲に数多の付城を築き、柵や杭をめぐらせて補給路を徹底的に断ち、城内の将兵、さらには城へ逃げ込んだ住民たちを飢餓の極限へと追い込む――。
結果、城内は地獄絵図となりました。
戦術は間違っていなかったが
天正八年(1580年)正月17日、三木城はついに限界を迎えました。
別所長治は城兵の助命を条件に、妻や弟の別所友之、叔父・別所賀相らと共に切腹して果てます。
しかし長治の離反が「無謀な裏切りだった」とは言い切れないでしょう。
そもそも家中が割れていただけでなく、秀吉による介入があり、足利義昭と毛利の調略もあり、実際、毛利の援軍にも期待できた。
三木城に籠もり、海路補給を受けながら毛利を待つ——そんな戦略があったのです。
ただし、相手が悪かったのかもしれません。
救援に向かっていた上月城を切り捨て、三木城の攻略を優先し、補給路を一本ずつ断ち切って孤立させた信長と秀吉。

『羽柴秀吉三木城包囲図』/wikipediaより引用
いくら堅城といえども、周囲を固められ飢餓に追い込まれては太刀打ちできません。
そうして徹底された織田・羽柴の持久戦が、別所や毛利の戦術の常識を上回ったのですね。
実際、飢餓に追い込まれた城はどうなってしまうのか?
「三木の干し殺し」や「鳥取の飢え殺し」については以下の記事をご覧ください。
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鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し|秀吉と官兵衛が仕掛けた凄絶な飢餓の包囲戦
続きを見る
参考文献
- 日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年6月 吉川弘文館)
- 天野忠幸編『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(2023年2月 戎光祥出版)
- 金子拓『織田信長 不器用すぎた天下人』(2017年4月 河出書房新社)
- 柴裕之編著『図説 豊臣秀吉』(2020年7月 戎光祥出版)
- 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)

