大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目された三木合戦(三木城の戦い)。
織田家を離反した別所長治が城に籠り、秀吉が同城に対して兵糧攻めを開始してから、約2年もの月日にわたって戦いが続いた。
そこまで長期化したのは一体なぜなのか?
ドラマでは描かれなかったが、城内では兵糧が底を尽き、馬や草木まで食べ尽くされ、餓死者も出るほど悲惨な状況となっていた。
そのため「三木の干し殺し」とも呼ばれる、過酷な三木合戦。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
史実からその惨状を振り返ってみよう。
三木城の戦いとは
天正六年(1578年)3月に始まった三木合戦(三木城の戦い)。
天正八年(1580年)正月まで、約1年10ヶ月にわたって続いた籠城戦であり、前述の通り
羽柴秀吉
vs
別所長治
という構図である。
播磨の有力者である別所氏は、中国攻略を進める秀吉にとって避けては通れぬ相手。

別所長治/wikipediaより引用
その後の展開を考えれば、できるだけ短期間で力攻めしても良さそうに見えるのに、なぜそこまで長期化したのか。
きっかけは別所長治が織田家に背いた時点まで遡る。
天正六年(1578年)2月、別所長治は毛利氏や将軍・足利義昭と連携し、それ以前に協力していた信長から離反した。
『信長公記』などによると、長治は秀吉に対して「存分」、つまり何らかの不満や恨みを言い立てていたという。
重要なのは、別所氏の離反が長治一人の決断ではなかったことだろう。
高砂の梶原氏、明石氏をはじめ、多数の播磨国衆が同調し、三木合戦は当初から播磨一国を巻き込む大きな反乱になっていた。
後世の軍記物である『播州三木別所記』は、長治離反の理由を以下のように記している。
・赤松氏の流れを汲む名門意識から身分の低い秀吉の下につくことを嫌った
・長治の叔父である別所賀相(吉親)の強い進言があった
こうした描写は非常にわかりやすい説明ではあるが、長治が抱いた「存分」の正確な内容まではわからない。
一つ確実なのは、別所氏の籠城は「毛利勢の援軍があって初めて勝ち目が生まれる」こと。
城から打って出て羽柴軍に勝てる見込みはなく、とにかく待つしかなかった。
秀吉はなぜ力攻めを避けたのか
三木城は、台地の上に築かれた天険の要害である。
天正六年(1578年)7月頃、現地を見た織田信忠は「この城は容易に落ちない」と判断。
力押しではなく「攻囲持久の策(囲んで干上がらせる戦法)」と決め、後事を秀吉に委ねたと『信長公記』には記されている。
つまり包囲戦は秀吉の一存で決まったわけではなく、織田信長・信忠親子の意向が反映されていた。

織田信長(左)と織田信忠/wikipediaより引用
物量に物を言わせて敵方の城を囲み、長期に渡って孤立させる戦術は、浅井・朝倉を追い詰めた小谷城の戦いや本願寺との戦いの経験が反映されている。
後世においては
「黒田官兵衛が秀吉に兵糧攻めを献策した」
という話も広く知られているが、なかなか微妙な説であろう。
確かに三木城を取り囲み始めたとき官兵衛は秀吉のもとにいたが、包囲戦が最も厳しくなる時期の戦場にはいない。
よく知られるように有岡城の荒木村重に囚われていたのである。
蟻一匹も通さぬ徹底した“付城網”
「兵糧攻め」と聞くと、ただ城の周囲を大軍で取り囲む様子を想像されるかもしれない。
羽柴秀吉が三木合戦で実行したのは、はるかに大がかりな土木戦だ。
周囲に40近い軍事拠点(付城・陣城)を築き、それらを繋ぐように総延長およそ5.5キロメートルもの土塁を多重に巡らせている。
三木城の周囲に新たな“壁”を築いたと言うべきか。
明石海峡の制海権も奪って海からの搬入路も塞ぎ、毛利軍が物資を陸揚げする地点からの補給ルートも完全に封鎖。
この包囲線は、織田軍の連絡通路としても機能した。
『播州御征伐之事』などによると、二重の塀だけでなく「乱杭(らんぐい)」や「逆茂木(さかもぎ)」を設けてバリケードとし、夜はかがり火を焚き、「走る獣も飛ぶ鳥も逃れられぬ」ほど厳重だったと描く。
表現上の誇張は否めないにせよ、秀吉がどれだけ注意深く周囲の警戒に当たったか、ご理解いただけるだろう。
壮大な包囲網を築き、無理な力攻めをしなかったことが、戦いが長引いた理由の一つでもある。
では、別所氏を支えるはずの毛利軍はいったい何をしていたのか?
途絶えてしまった毛利の援軍
毛利氏の当主・毛利輝元も、別所氏を救うため吉川元春や小早川隆景らを動かし、村上水軍を使って海から兵糧を運び込もうとした。
当初は毛利水軍が優勢で、支援の継続も可能と見られていたのだ。

毛利輝元/wikipediaより引用
そんな攻防が頂点に達したのが、天正七年(1579年)9月の大村合戦(平田の戦い)である。
毛利・雑賀・播磨衆の援軍が兵糧搬入を狙って羽柴軍の付城である平田城を奇襲し、守将の谷大膳を討ち取ると、すかさず秀吉方が反撃して、別所方にも死傷者が出た。
『信長公記』や秀吉の書状によると「敵を多数討ち取った織田の大勝」とされ、毛利方の史料(『萩藩閥閲録』など)では「兵糧を無事に運び入れ、敵の付城を破った」と記されている。
一体どちらが勝者なのか?
記述は真っ二つに分かれているが、結果だけはハッキリしている。
これを最後に毛利からの兵糧搬入は途絶え、三木城は事実上見殺しにされた。
有岡城主・荒木村重の離反
秀吉は三木城を徹底して包囲する一方、周辺の支城も一つずつ的確に潰していった。
天正六年(1578年)7月には神吉城・志方城を落とし、翌年には淡河城なども攻略。
こうして三木城を孤立させる作業に取り掛かっていっところ、背後の摂津で思いもよらない出来事が起きる。
天正六年(1578年)10月、荒木村重が突如裏切り、有岡城に籠城したのだ。

荒木村重/wikimedia commons
毛利や本願寺と手を組み、織田の畿内支配や羽柴軍の背後を脅かす荒木村重。
この村重の裏切りを説得するため黒田官兵衛が城へ出向き、そのまま土牢に幽閉されてしまったことはよく知られた話であろう。
実際、不衛生極まりない牢屋に入れられるのか?という疑問は以下の記事に譲り、話を先へ進めると、
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黒田官兵衛は本当に“地獄の土牢”に監禁されたのか?有岡城幽閉の真相
続きを見る
信長はこの村重を抑え込むため有岡城にも大軍を投じ、摂津と播磨で同時に兵糧攻めが行われることになった。
そこから月日はジリジリと進む。
毛利の補給も届かなくなり、兵糧攻めの効果が出てくる。
結果、城内はどうなったか?
“干し殺し”の地獄絵図
三木城の包囲網が完成し、外からの補給が断たれると、城内は地獄絵図と化していった。
開城直前ともなると、すでに餓死者が数千人に達していたと『信長公記』には記されている。
数千人とはさすがに誇張も考えられるが、大量の死者がいたのは確実。
『播州御征伐之事』や『別所記』などでは
「初めは糠(ぬか)や馬の飼葉を食べ、やがて牛馬や鶏、犬を食らい、果ては人の肉にまで手をつけた」
と記している。
人肉とは、なかなかキツい猟奇的描写であり、大袈裟に記された可能性も否めないが、秀吉が鳥取城を兵糧攻めしたときの「鳥取の飢え殺し」でも同様の記録は残されている。
まんざら否定はできず、だからこそ「三木の干し殺し」と呼ばれるのだろう。

鳥取城
食糧が尽き、餓死者が出るようになっても援軍が来なければ、もはや城に籠る意味はない。
天正八年(1580年)1月17日、別所長治は、妻や弟の別所友之、叔父の別所賀相(よしちか)らと共に自害し、秀吉に城を明け渡した。
城兵はことごとく撫で斬りされたのか
自らの命を差し出し城兵を救う――別所長治の最期は、長く美談として語られてきた。
豊臣秀吉の御伽衆が書いた『播州御征伐之事』では、籠城の責めはすべて叔父の別所賀相に負わされ、長治の犠牲精神と共に秀吉の寛大さも称えられている。
ところが近年の研究では、それとは異なる状況が指摘されている。
開城直後の宇喜多直家宛の秀吉書状や、顕如(本願寺)の書状などによると、生き残った三木城の城兵が一か所に追い詰められ、ことごとく撫で斬りにされたというのだ。
兵士全員が殺されたのか、抵抗した一部に限られた話なのか。
詳細はまだ確定していないが、秀吉は、三木合戦の翌年にあたる天正九年(1581年)に鳥取城でも同様の包囲戦を行い、将兵だけでなく多くの地元住民も死に追いやっているだけに、撫で斬りは十分にあり得る話だろう。
単に残忍な性格というより、毛利勢や周辺地域の住民に対する見せしめのためである。
天正十年(1582年)にも備中高松城で水攻めによる包囲戦を行った羽柴軍。
その最中に本能寺の変が起きてなければ、備中高松城でもより悲惨な大量の餓死者が出ていたかもしれない。
なお、三木城と鳥取城における兵糧攻めと飢餓についての医学的解説も交えた記事は以下以下にあります。
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鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し|秀吉と官兵衛が仕掛けた凄絶な飢餓の包囲戦
続きを見る
参考文献
- 日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史 一五六〇‐一五八二』(2016年7月 吉川弘文館)
- 藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(2003年1月 講談社)
- 堀新編『信長公記を読む』(2009年2月 吉川弘文館)
- 岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
- 中井均『信長と家臣団の城』(2020年3月 KADOKAWA)
- 日本史史料研究会編『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(2014年10月 洋泉社)
- 天野忠幸『荒木村重 シリーズ・実像に迫る』(2017年5月 戎光祥出版)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成〔増補第3版〕』(2024年10月 思文閣出版)


