織田信長の命により、中国地方の攻略に取り掛かった羽柴秀吉。
その代表的と言える戦いが「三木合戦」であり「鳥取城の戦い」でしょう。
それぞれ「三木の干し殺し」と「鳥取の飢え殺し」という別の呼び名があり、いずれも秀吉が徹底した包囲戦の末、多くの毛利方将兵や地元住民が餓死へ追い込まれた、戦国史の中でもかなり凄惨な戦いとなっています。
食料を断たれた城内では、人間の尊厳さえ失われるほど凄惨な飢餓が広がっていきました。
それがなぜ二度も、中国攻略を手掛ける秀吉によって行われたのか?
実際にどれだけ酷い惨状となったのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』では描かれなかった「鳥取の飢え殺し」を振り返ってみましょう。
秀吉についた山名豊国が城から追い出され
合戦の舞台となる鳥取城は、鳥取市の久松山に築かれた山城です。
因幡(鳥取県)支配の要衝であり、天正八年(1580年)当時の城主は山名豊国でした。
この山名豊国がなんとも頼りない城主でして。

山名豊国/wikimedia commons
毛利につくか、それとも羽柴か。
判断つかないままに同年5月、羽柴軍に城を囲まれると、翌6月には早くも降伏するのですが、それをよく思っていなかった毛利派の家臣・森下道誉や中村春続などによって城から追い出されてしまうのです。
それが落城から約3ヶ月後の同年9月21日のこと。
秀吉はすでに播磨へ軍を引いており、すぐに奪い返すための軍を発することができません。
とはいえ、鳥取城を奪い返すため再度攻撃を仕掛けるのは明白であり、毛利方としても黙って見過ごすことはできない。
そこで、どう対処したか?
厳しい条件の鳥取城へ入った吉川経家
当時の毛利家は、毛利輝元や吉川元春らが、備前・美作方面で宇喜多氏と対峙していました。
十分な援軍を送り込む余力は乏しい。
されど鳥取城は死守しなければならない要衝である。
そこで派遣されたのが吉川経家です。

鳥取城跡の麓にある吉川経家像
経家は、石見国福光城主・吉川経安の嫡男であり、吉川元春の実子ではありません。
しかし知勇備えた武将として知られ、鳥取城には天正九年(1581年)3月18日に入城すると、当初は冬まで持ちこたえれば勝機があると毛利方でも考えていたようです。
積雪の多い日本海側の鳥取で冬を迎えれば、大軍を率いる秀吉は長期間の包囲を続けられない。そう見込んでいたのでしょう。
ところが……。
陸と海を封鎖する巨大包囲網
天正九年(1581年)6月27日、羽柴秀吉は2万余りの軍勢を率いて姫路城を出発しました。
先行したのは弟・羽柴秀長です。
秀長は藤堂高虎らを率いて7月5日に吹上浜へ上陸し、丸山城周辺へ進出。
鳥取城と周辺拠点との連絡を断ちにかかります。

一方、秀吉の本隊が鳥取城東方の高山(現在「太閤ヶ平」と呼ばれる場所)に着陣したのは7月12日のことでした。
そこから次々に周囲の拠点へ家臣たちが配置され、包囲網が築かれていきます。
・雁金山には宮部継潤や垣屋豊続
鳥取城と丸山城の周囲には堀や柵、櫓が築かれ、さらに外側を大きく囲み、二重、三重に築地を設けたと『信長公記』でも伝えてられています。
包囲網は、こうした陸上だけではありません。
海上にも水軍が配置され、賀露方面などから河川を使って兵糧を運び込むことも防御したのです。

海上と河川は水軍で監視、地上では城の周囲とさらにその外側を取り囲んだ羽柴軍:GoogleMapより引用
問題は、秀吉サイドの越冬でしょう。
今度どれだけ続くかわからない包囲戦でどのように自分たちの食糧を確保するのか?
雪道では大軍を支えるだけの物資など運べない。
どうするのか?
そんな疑問に対する回答は意外と単純なもので、水軍で制圧した海路と河川を利用し、水上輸送の体制を整えたのでした。
こうして、攻める側には食料が届き、籠もる側には届かない、完璧すぎる秀吉の包囲網が完成したのでした。
飢餓地獄と化した鳥取城
天正九年(1581年)7月に始まった包囲戦は、夏から秋へ。
相次ぐ合戦により、そもそも米が窮乏していた因幡地方ですから、秋に入ると早くも兵糧は尽き始めました。
実は、この戦が始まる前、秀吉が商人を使って高値で買い占め、鳥取城の備蓄米まで売らせ、さらには周辺住民を城内へ追い込んだ、という話も伝わっています。
こうした話は『陰徳太平記』など、後世の軍記物による逸話であり、史実かどうかは定かではありません。
確かなのは、実際に鳥取城内で食料が不足し、またたく間に深刻な飢餓へと発展したことでしょう。
備蓄米が尽きると、草木や稲株。
それも尽きると、牛馬。
その牛馬まで食べ尽くすと、弱い者から際限なく餓死したと『信長公記』に記されています。
むろん毛利側も、鳥取城を救援すべく吉川元長(吉川元春の嫡男)が進軍を開始するなどしましたが、織田方に足止めをされて城までたどり着けていません。
当然ながら、兵糧だけ運び入れようとする動きも秀吉軍に封じられておりました。
こうなると、もうどうにもならない。
痩せ衰えた男女が柵際まで出て、助けを求めて泣いたという話もありますが、羽柴軍としては投降を認めるわけにはいかない場面。
秀吉軍が鉄砲を撃つと、飢えた人々が倒れた者に群がり、まだ息のある者にも刃を当てて肉を奪い合った――そんな記述まで『信長公記』にあります。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
深刻な飢餓のなかで、通常では考えられない行動に至った人がいた可能性は否定できないでしょう。
むろん、城内で人肉食が常態化していたとまでは言えません。
それでも「鳥取の飢え殺し」と言い伝わるほどに悲惨な現場だったことは間違いなく……こんな調子では、いくら堅固な山城でも、有能な城主でも、持ち堪えられるはずはなく。
籠城開始から約3ヶ月、吉川経家らは開城交渉に入りました。
開城と吉川経家の最期
吉川経家・森下道誉・奈佐日本之介の3人が責任を取る代わりに、城内の人々を助命して欲しい。
『信長公記』によると、経家らは秀吉に対してそう申し込んだようです。
ただし、実際の切腹者の中には中村春続や塩冶高清といった名前もあったりして、処分の範囲については史料によって異なります。
いずれにせよ天正九年(1581年)10月25日、経家たちの切腹をもって鳥取城は開城。
残された城兵や住民は助命されました。
経家は切腹を前に、父や子、吉川一族へ書状を残しました。
これが、なんとも涙を誘うものでして……。
縁もゆかりも無い城での防衛戦を命じられ、それでも城将として籠城を指揮し、最後には自らの命を差し出した経家の思い――よろしければ、本記事末の関連記事からご覧ください。
飢え殺しが示す羽柴軍の組織力と残酷な犠牲
「三木の干し殺し」に続き、「鳥取の飢え殺し」で城兵や民衆らを飢餓のどん底へ追いやった秀吉。
字面だけ見ると、なんだか冷酷な人物に見えるかもしれません。
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三木の干し殺しの恐怖|なぜ秀吉は三木合戦に2年もの月日を費やしたのか
続きを見る
しかし、だからといって「秀吉は残虐だった」と結論付けてしまうのも乱暴な話でしょう。
秀吉の戦い方をまとめるとこうなる。
・正面攻撃での衝突を避け、自軍の損害を抑える
・陣城を築いて陸路や海路を遮断し、自らは適切に補給を続けながら長期間の包囲を維持する
とにかく自軍の損害が少ない。
見方によっては「家臣の命を大事にしている」とも言えますし、そもそも大軍を支える物流を維持し続けることが当時はどれだけ大変だったか。
それを2戦続けて可能にした能力がやはり高いのであり、土木・兵站・包囲網を駆使する攻城作戦が、秀吉にとって大きな武器になっていたことは確かでしょう。
むろん、犠牲となった城兵や住民の無念を忘れることもできません。
吉川経家が子供に残したという手紙を読むと、誰だって涙を誘われてしまう……その中身は、以下の記事よりご参照ください。
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吉川経家の手紙|秀吉に包囲され籠城戦の末に自害 残された子供たちへの想いとは?
続きを見る
参考文献
- 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
- 日本史史料研究会監修『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年7月 吉川弘文館)
- 諏訪勝則『図説 藤堂高虎――乱世を駆け抜けた稀代の名将』(2025年10月 戎光祥出版)
- 柴裕之『羽柴秀長――秀吉の天下を支えた弟』(2025年9月 KADOKAWA)
- 黒田基樹『羽柴秀長の生涯――秀吉を支えた「補佐役」の実像』(2025年9月 平凡社)
【TOP画像】鳥取城の古絵図/wikimedia commons


