明智光秀は、本能寺の変に至るまで、いったい何をしていたのか。
主君である織田信長を襲撃したのだから、前もって周到に準備していたに違いない。
いやいや、偶然が重なって光秀に有利な状況ができたから、咄嗟に襲いかかっただけだよ。
本能寺の変では、このように数多くの動機説が唱えられてきましたが、そこで改めて注目したいのが「事件前の光秀の行動」です。
事件の1~2年前、あるいは1~2ヶ月前、何か特別な行動はなかったか。
以前から計画を練っていたのであれば、隠しきれない違和感が浮かんでくるかもしれない。

明智光秀/wikimedia commons
そこで本記事では原点に立ち返り、事件前の光秀を史実面から振り返ってみたいと思います。
織田政権の中枢にいた光秀
天正八年(1580年)から天正十年(1582年)にかけての明智光秀は、信長家臣団でも屈指の重臣でした。
その直前の天正七年(1579年)までに、長年苦戦していた丹波をようやく攻略。
光秀は、近江坂本城と丹波亀山城という二つの重要拠点を持つ大名へと成長していました。
坂本城は琵琶湖の水運と京都への交通路を押さえる要地であり、亀山城は丹波支配と山陰方面へと繰り出す重要拠点です。
そこから福知山城や周山城(しゅうざんじょう)などの築城や整備を進め、光秀は領国経営を担う織田傘下の大名として働いていました。
しかも光秀の仕事は合戦だけではありません。
京都の治安維持、朝廷や公家との折衝、寺社への対応、畿内周辺の国衆統制など。
織田政権の中枢業務にも深く関わり、教養と軍事的才能を兼ね備えた光秀の役割は殊のほか大きくなっていました。
本能寺の変直前、失脚寸前の家臣だったわけではありません。
信長から軍事・政治・儀礼の重要任務を任され、大きな領国も預かる最重要人物の一人だったのです。
武田氏滅亡のときは何をしていた?
天正十年(1582年)2月、織田信長は武田勝頼を討つべく甲州征伐を開始します。
主力となったのは嫡男・織田信忠の軍勢です。
木曽義昌の離反をきっかけに武田領へ一気に攻め込み、勝頼は3月11日、天目山で自害。
かつて戦国最強とも称された武田氏をまたたく間に滅ぼしました。

武田勝頼/wikimedia commons
実はこのとき光秀も、後続部隊として出陣しています。
『兼見卿記』によると、3月5日には武具を帯び、多人数を率いて出陣し、後続部隊として動いていた。
立ち位置からして大きな武功は望めませんが、信長から信頼されていたからこそ、後方を支える重要な役割を任されたのでしょう。
武田氏滅亡後、関東には滝川一益が配置され、北陸では柴田勝家が上杉氏と対峙、中国方面では羽柴秀吉が毛利氏と交戦しつつ、四国方面でも三男・織田信孝による長宗我部攻めの準備が進められる。
まさに織田政権が四方へ一気呵成に戦線を広げていたこの時期。
光秀の領国では、築城や普請の動員から農地開発などへ切り替えが行われた可能性も指摘されており、畿内が落ち着き、西国出陣への備えを進めていたと目されています。
この段階では、本能寺の変の予兆を感じさせる動きは見えません。
光秀は粛々と織田政権のために働いていたと見るべきでしょう。
家康接待役は本当に屈辱だったのか
天正十年(1582年)5月、徳川家康が安土城を訪れます。
武田氏滅亡によって大きなプレッシャーから解放され、さらに領土や家臣を拡充させた家康。
信長が安土に招いて手厚くもてなすとき、饗応役(接待役)を命じられたのが明智光秀でした。

徳川家康/wikimedia commons
『兼見卿記』には、家康の安土滞在中、光秀が信長から接待を命じられ、その準備に奔走していた様子が記されています。
相手に礼をつくすための饗応役だけに、政治・儀礼・京都事情に通じた光秀は、申し分ない人選と言える。
主君から選ばれたこと自体が名誉なことです。
しかし、この安土接待にはよく知られた逸話があります。
・光秀が腐った魚を出し、信長が激怒して光秀を折檻
・屈辱を受けた光秀が恨みを募らせ、本能寺の変を起こした
非常に有名なエピソードですが、後世の軍記物などで広まった話であり、一次史料で確認はできません。
では実際に、どのような経緯で光秀は接待役を離れたのでしょうか。
5月17日頃、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉から援軍要請が届きます。
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景ら毛利勢の主力が接近したため、信長自身の出馬を求めたのでした。
そこで信長は、光秀を家康接待役から外し、中国方面への出陣を命じます。
つまり、光秀が接待役を途中で離れたのは事実ですが、信長の命令による緊急の軍事行動だったというのが実情でしょう。
では、その後の光秀はどんな行動をしたのでしょう?
饗応役を解かれた光秀の行動は?
安土城での饗応役を解かれた明智光秀は、17日中に居城・坂本城へ戻ったと考えられます。
一方、中国攻めの本格出陣を決めた信長は、まず「名人久太郎」とも称された堀秀政を秀吉のもとへ派遣。
さらには細川忠興、池田恒興、高山右近、中川清秀らにも出陣を命じたのです。
中国派遣は、光秀だけではなかったんですね。
そして光秀は坂本城を出て、5月26日に丹波亀山城へ入りました。
亀山城は丹波支配の中心拠点であり、中国方面へ向かう軍勢を整えるには適した場所と言えます。
ここで兵を集め、兵糧や馬、鉄砲、弾薬などの手配を進めると、5月27日、愛宕山へ向かいます。
愛宕山は軍神として信仰を集めた愛宕権現の地であり、戦勝祈願のための参詣としては何ら不自然ではありません。籤(クジ)を引いたとも伝わります。
そして5月28日に里村紹巴らを招いて開かれたのが愛宕百韻でした。

『絵本太閤記』「光秀連歌の図」/wikimedia commons
そこで詠まれたのが、よく知られたこの一句。
時は今 あめが下しる 五月かな
「土岐氏の一族である光秀が、今こそ天下を取る時だと示した暗号」
後世ではそんな解釈もされる一句ですが、実際のところ中国攻めの戦勝祈願として「天下が治まる五月」と取るほうが自然です。
そもそも光秀のように注意深い人物が、公の連歌会で謀反の意思を表したりはしないでしょう。
信忠も京都にいたという特殊な状況
愛宕百韻を終えた光秀は、同日中に亀山城へ。
一方の織田信長は、5月29日に本能寺へ入っています。
信長は、6月1日に公家衆の訪問を受けると、甲州征伐の成功や、西国出陣について上機嫌で語り、自身は6月4日に中国地方へ出陣する予定でした。
非常に危うい状況となったのはこのとき。
信長の嫡男・織田信忠も5月29日に京都へやってきたのです。

織田信忠/wikimedia commons
当初は、家康や穴山梅雪らと堺へ同行する予定だった信忠。
父の信長を出迎えるため妙覚寺に宿泊したため、織田政権の中心である信長と信忠の父子が同時に在京するという状態が生まれました。
信忠の周辺には数百人規模の馬廻衆らがいたとされますが、約1万3,000という明智軍の前では寡兵に他なりません。
光秀は6月1日夜、亀山城を出立します。
中国方面へ向かう軍勢ですから、本来なら丹波から西へ進み、播磨方面を経て秀吉のもとへ向かうはずでした。
ところが、光秀軍は東へ。
進軍ルートについては、老ノ坂を越える山陰道ルートが有力視されていますが、唐櫃越えを通ったとする説もあります。
いずれにせよ中国方面へ向かうはずだった軍勢が、京都へ進路を変えた。
前述の通り、明智軍の兵力は一般に約1万3,000前後とされます。
史料によって数字に幅はありますが、これだけの大軍を堂々と移動できるのは中国攻略への前提があったから。
しかし、光秀はいつ謀反を決意したのか?
最大の疑問はそこでしょう。
光秀はいつ決意したのか
誰かの陰謀により、以前から下剋上の機会を狙っていたのか。
佐久間信盛などの重臣が追放された時点で秘かに決意していたのか。
あるいは亀山城を出た6月1日の夜、土壇場になって心変わりをしたのか。
光秀の決意のタイミングは、今もって結論は出ていません。
ただし、少なくとも事件直前までの行動は、表向き「織田家臣として通常の働き」でほぼ説明がついてしまいます。
家康接待は信長から任された公的任務ですし、中国方面出陣も信長の命令。
坂本城から亀山城へ移ったのも、軍勢を整えるためなら想定内のことですし、愛宕山参詣も戦勝祈願として考えるほうが自然です。
つまり事件直前の光秀には、周囲から見て「謀反を準備している」とわかるような動きは見えません。
むしろ忠実な重臣として、最後まで振る舞い続けました。
この点が、光秀の慎重さを物語るものでもあり、本能寺の変をいっそう不可解にもしているのでしょう。
ただし、天正十年(1582年)春時点の織田政権では、光秀にとって無視できない不安材料もありました。
信長は四国政策を転換し、長宗我部元親との関係が悪化。
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信長が長宗我部元親の「四国切り取り」を突如否定したのには相応の理由あり
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光秀の重臣・斎藤利三は長宗我部氏と縁が深く、直前まで交渉に関わっていたとされます。
もし信長が長宗我部攻めを本格化させれば、光秀が築いてきた外交ルートは否定され、信長・斎藤利三・長宗我部元親の間で板挟みにされてしまう。

『堅田浦の月』の斎藤利三(月岡芳年『月百姿』より)/wikipediaより引用
そもそも信長は、毛利攻めや四国攻めだけでなく、関東の支配拡大、北陸戦線での上杉家攻略など、各方面で大規模な戦争を進めていました。
部将たちは遠国へ派遣され、軍事負担は急激に膨張。
こうした政治的・軍事的な緊張が、光秀の判断に影響を与えた可能性は否定できないでしょう。
しかし「だから謀反を起こした」とも断定できないのが辛いところです。
本能寺の変は、まず信長信忠父子が同時に在京していたという千載一遇のタイミングであり、そこに以前からの様々な思惑が重なり、最終段階で決断へ傾いた可能性も考えられます。
計画的だった方が話として刺激はありますが、やはり一番の要因は信長信忠父子が同時に在京していたことではないでしょうか。
まとめ
本能寺の変直前の明智光秀は、何をしていたのか。
表向きは、怪しい動きなど見えません。
織田政権の重臣として、いつも通りの重要任務をこなしていました。
丹波・近江の領国経営に携わり、京都周辺の政治・軍事を担当し、武田征伐へも出陣。
さらには安土城での家康接待を命じられ、中国方面への出陣準備を進めていました。
本能寺の変は、その直後に突如として起きたものです。
光秀は失脚寸前の家臣ではなく、むしろ信長から多くを任された織田政権の中枢人物だからこそ、周囲の誰もが謀反を予想できなかった。
当の織田信長本人が最も驚いたのではないでしょうか。
そして本能寺の変最大の怖さは、まさにそこにある気がします。
事件直前までごく普通の態度であった重臣が、ある夜突然、明確な理由が不明なまま主君の宿所へ襲いかかったのです。
ただし、それはあくまで信長から見たときの話。

織田信長/wikimedia commons
光秀や勝家、秀吉ら各方面を任された重臣たちは、織田政権の急拡大の中で、極めて重い軍事的・政治的負担を背負っていました。
そうした緊張が極限に達した中で、本能寺の変は起きるべくして起きたのかもしれません。
なお、明智光秀の生涯については以下の別記事を併せてご覧いただければ幸いです。
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史実の明智光秀はドラマのような生涯を駆け抜けたのか?本能寺までの足跡を辿る
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参考文献
- 太田牛一著/中川太古訳『地図と読む 現代語訳 信長公記』(2019年9月 KADOKAWA)
- 福島克彦『明智光秀――織田政権の司令塔』(2020年12月 中央公論新社)
- 柴裕之編『明智光秀 織豊大名の研究』(2019年5月 戎光祥出版)
- 柴裕之編『図説 明智光秀』(2018年12月 戎光祥出版)
- 高橋成計『明智光秀の城郭と合戦』(2019年7月 戎光祥出版)
- 谷口克広『信長軍の司令官――部将たちの出世競争』(2005年1月 中央公論新社)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成【増補第3版】』(2024年10月 思文閣出版)
- 洋泉社編集部編『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(2016年10月 洋泉社)
- 日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(2014年10月 洋泉社)
- 堀新・井上泰至編『信長徹底解読』(2020年7月 文学通信)


